CHARIS MAGAZINE 第2号の記事

福音宣教の課題
メアリー・ヒーリー博士、カリス教義委員会委員長

マルコの福音書は、次の言葉で終わっています。「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」。すべての時代における教会の福音宣教活動がどういうものであるべきかを何と見事に表現していることでしょう! 彼らの福音への信仰に満ちた宣言を通して、主の救う力がそれを最も必要としている人々に示されるようにと、復活された主が「彼らと共に働き」、あるいは「彼らと共に協同的な企てに参加された」のです。

その協同的な企てがどのようなものであるか、それを示す一つの良い例が私の友人ジョンの刑務所ミニストリーでも起こりました。彼は刑務所やリハビリ・センターで定期的にボランティア活動をし、キリストの愛と思いやりを入所者たちに伝えています。ある日、いつものように、祈るために一部の入所者たちを集めていたのですが、このようなことが起こりました。

「リックという入所者が背中の痛みを訴えました。私がそのことのために祈ると痛みが消えました。でもそのとき、聖霊から促しがあり、片足がもう一方の足より短くはないか彼に尋ねてみました。よく分からないけれど、足首の手術を受けたことがある、と彼は言いました。調べるために彼を座らせると、案の定、両足の長さが違っていました。私は部屋の中にいる12人かそこらの男性に、周りに集まるようにと、そして見ていてごらんと言いました。イエスは私たちを失望させませんでした。片足が伸びて他方と同じ長さになったのです。もちろん、彼らは仰天しました。皆、目の前でそれが起こるのを見ていたのですから。私はこの機会をとらえて福音宣教し、神の愛について、さらに、神は肉体的な病をいやしたいと思っておられるだけでなく、リックとご自分との関係もいやしたいと思っておられるし、それは私たち全員にとっても同じだと話しました」。

その日、入所者たちはよいカテケーシス(教理の教え)を受けただけでなく、彼らの人生を根底から変えるイエスの力と慈しみを目に見える形で見せていただいたのです。

半世紀以上にわたって教会は、明快に呼びかけています。それは新しい福音宣教への呼びかけです。それはバチカン第二公会議で始まりました。公会議は、私たちの時代に教会が福音をもっと効果的に公言するよう、その刷新を追求しました。公会議の後、教皇パウロ6世は大胆に宣言しました。「福音宣教は、実際、教会にふさわしい恵みと召命であり、教会の根源的なアイデンティティーです。教会は福音宣教をするために存在しています」。パウロ6世以降の教皇も皆、そのメッセージを繰り返してきました。教皇フランシスコはこう表現しています。「私たちは教会の建物内で涼しい顔でおとなしく待つことなどできません。私たちは、単なる現状維持のための司牧的な働きから、決定的に司牧的な働きに移行する必要があります」。

(この後、新しい福音宣教が世界的にあまりうまく行っていないのは、何が足りないからなのか、という問い掛けがなされ、その答えは聖書にあるとの説明があり、次に続きます。)

イエスは弟子たちに教えておられました。彼らの使命はご自身の使命に基づいていると。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21)。イエスはひいては私たちの模範です。イエスの使命は、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたときに正式に始まりました。それは、御父の計画に対する謙遜で従順な行為でした。その直後、天が開け、聖霊が鳩の形でイエスの上に降って来て、イエスは御父の愛の宣言を聞きました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。福音書は天がその後再度閉まったとは言っていません。推測されるのは、開けた天の下でイエスは生活しておられた!ということです。受洗後、イエスは「聖霊に満ちて」おられましたし、ご自分の教えと癒しと圧迫された者たちの解放のミニストリーを始めるために「“霊”の力に満ちて」ガリラヤに帰られました(ルカ4・1、14)。イエスが力に満ちてミニストリーを始められたのは、受洗以前ではなく、受洗の日以降でした。イエスは神の一人息子であるにもかかわらず、聖霊に依存する人間として生きることを選ばれたのです。

荒れ野で悪魔の誘惑に対抗した後、イエスはナザレで会堂に入り、就任挨拶代わりの説教をされました。その中でイエスは御自分のメシアとしての使命を総括されました。イエスは預言者イザヤの巻物を取り、メシアについての預言を読まれました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18-19)。

次にイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。それは実際、イエスの「ミッション・ステートメント(使命についての声明文)」で、ご自分が何をするために来られたのかを完璧に説明しています。イエスが聖霊によって油注がれているのは、束縛、盲目、病気、圧迫、非行、悲惨さが見られるすべての場所に送られ、実際に人々を自由にすることによって、救いのよい知らせを宣言し、かつ、目に見える形でそれを実証するためです。

イエスは、ご自分が伝えている福音は、力を伴っているのでよい知らせだと私たちに教えておられます。逆に言うと、力が伴っていなければ、福音はよい知らせではないということになります。この基本的な考え方を明確にするのに役立ちそうな一例を挙げます。暗くてじめじめした地下牢を想像してみてください。何百人もの人々が鎖につながれています。彼らは不潔で、空腹で、寒さに震え、病に苦しみ、惨めで、苦々しい思いと絶望に満ちています。次に、その牢獄に誰かが入って来て大声で宣言するとしましょう。「おーい、みんな! よい知らせだ。獄中の扉を開けてすべての捕われ人を解放するために来られた救い主がおられるぞ。とにかく、私はそれを君たちに知らせたかっただけなのだ。よい一日を過ごしてくれ」。そう言って、その人は出て行きます。皆、前と同じように鎖につながれたままです。このメッセージはよい知らせだったのでしょうか? もちろん、宣言されたことが実際に起こるまでは、よい知らせなんかではありません。福音も同じことです。福音は、それが宣言していること、すなわち、癒し、自由、赦し、祝福、救いを実際にもたらす力を伴って伝えられるからよい知らせなのです。

もう一つのとてつもなく重要な真理が、ルカ4・18~19のイエスのミッション・ステートメントに埋め込まれています。イエスは、ご自分が始めようとしておられるすべての力に満ちた業(わざ)、すなわち、癒し、奇跡、悪霊追い出し、権威ある教え、神の御国の到来の宣言は、神の子として持っておられる神的な全能の力ではなく、ご自分の人性に付与された聖霊の油注ぎに起因すると言っておられるのです。これが非常に重要な訳は、イエスは、私たちご自分の弟子たちに、イエスご自身に油注がれた聖霊とまさに同じ聖霊を与えると約束されたからです。ご自分の人性が聖霊によって満たされ強められていたことに、ちょうどイエスのミッションの基盤があったように、私たちのミッションの基盤も、聖霊によって満たされ強められていることにあります。その聖霊はまず聖霊降臨において注がれ、今では洗礼と堅信を通して与えられており、その臨在はキリスト者の生活において継続的に新たにされていくべきものです。

ご自分の使命のエッセンスを宣言された後、イエスはそのとおりのことを始められました。その時点以降、福音書の大部分がイエスの癒し、解放、奇跡についての記述に費やされています。再三にわたって福音書はイエスのミニストリーを次のような言い方でまとめています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4・23)。イエスの癒しや奇跡は、その宣教と切り離すことができません。それは、イエスが宣べるよい知らせの単なる外面的な証拠ではなく、それが具現化されたものです。御国がここに来ていることを目に見える形で明示するものです。ご自分は本当にメシアであり、罪とあらゆる悪に勝っておられる、すべての病人とすべての罪人を憐れんでおられる、人々を解放するために来ておられる、というメッセージが本当であることを非常に説得力のある方法で示すものです。

どう宣教するか、ご自身の生き方で示された後、イエスはご自分の使命を継続するよう弟子たちに命じられました。ご自分と同じように福音を宣べ伝えるよう命令されたのです。すなわち、言葉だけでなく、その真実を実証する超自然的な行為によって。イエスは12人に指示されました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・7~8)。さて、多くのキリスト者は、この途方もない指令を読んで、これは使徒たちだけが受けた指令だと思い込んでいます。でもこの思い込みには根拠がありません。なぜならイエスは、後で70人の弟子からなるもっと大きな集団を送り出しておられます(この弟子たちは、全ての時代の弟子たちを代表しています)し、彼らに基本的に同じ指令を出しておられるからです。「どこかの町に入り、迎え入れられたら、……その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(ルカ10・8~9)。

ここでも、これを読んで、この命令は、教会の当初の成長期に初代のキリスト者だけに与えられたものだと思い込む人々がいます。でも福音書はそのような結論の余地を残していません。なぜなら復活された主はご昇天の直前に再度それを繰り返しておられるからです。それは全ての時代に有効な命令と約束です。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マルコ16・15~18)。

普通のキリスト者が途方もないことあるいは不可能なことでさえ行うことを主はどうして期待できるのでしょうか? その秘密を主はご昇天前のご自分の言葉の中に示しておられます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1・8)。弟子たちを「高い所からの力で覆い」(ルカ24・29)、人間的には不可能なことを行わせ、ひいては、イエス・キリストは罪とサタンと死に打ち勝たれたことを実証されるのは、聖霊なのです。

(以下、フィリポ、初代教会、聖フランシスコ・ザビエル、現在における力強い福音宣教の事例が紹介されています。)

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2020年01月01日