CHARIS 祈りのキャンペーン1(カンタラメッサ神父)

1. 共に祈り、聖霊を受けよう

 来る聖霊降臨の主日に、カトリック・カリスマ刷新の恵みの潮流全体に奉仕する機関が新たに一元化され、CHARIS(カリス)として始動します。この日は、私たちと全教会の上に聖霊が新たに注がれるまたとない機会です。この考察は、調整委員会が私に依頼してきた連続3回の考察の1回目ですが、どの回の目的も、このイベントの霊的成功に貢献すべく祈りに専念したいと願う多くの兄弟姉妹を聖書的神学的基盤で支え励ますことに他なりません。
 使徒たちはいかにして聖霊の訪れに備えていたのでしょうか。祈りによってです。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1・14)。高間でマリアと共に集まっていた使徒たちの祈りは、最初のエピクレシス、すなわち聖霊を願う祈りです。聖霊を呼び求めるというエピクレシスの次元が教会に始まったのです。この「聖霊、来てください」は永遠に教会内で響き続けます。そして、典礼は聖変化という最も重要な行為を導入するためにエピクレシス[訳注・たとえば第二奉献文では、「いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください」という祈り]を用いるのです。
 教会が祈っていると、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、(……)一同は聖霊に満たされ」(使徒2・2~4)ました。キリストの洗礼で起こったことが再び起こったのです。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が(……)イエスの上に降ってきた」(ルカ3・21~22)。聖ルカは、天を貫いて聖霊をイエスの上に降らせたのはイエス御自身の祈りだった、と言いたかったのではないでしょうか。同じことが聖霊降臨で起こったのです。
 驚くべきことに、『使徒言行録』では聖霊の訪れが絶えず祈りと結び付けられています。洗礼の決定的役割は確かに語られてはいますが(使徒2・38)、祈る必要性をより強調しているのです。サウロは、主が彼の視力を回復させ聖霊で彼を満たすためにアナニアを遣わされたとき、祈っていました(使徒9・9~11)。サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いた使徒たちは、ペトロとヨハネを遣わしました。「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った」(使徒8・15)。
 このとき、魔術師シモンは聖霊を金銭で手に入れようとしたので、使徒たちは憤然と応じました(使徒8・18~24)。聖霊は金銭で買うことができません。人は聖霊を祈りによってしか願い求めることができないのです。イエスご自身も、聖霊という賜物を祈りと結びつけ、こう言われました。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11・13)。
 イエスは聖霊を私たちの祈りと結びつけられただけでなく、何よりも御自身の祈りに結び付け、こう言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして(……)くださる」(ヨハネ14・16)。祈りと聖霊という賜物との間には、恵みと自由の間に存在するのと同じ循環性と浸透性があります。私たちは祈ることができるように聖霊を受ける必要があり、聖霊を受けるために祈る必要があるのです。恵みの賜物が最初にやって来ますが、この賜物が保たれ増し加えられるように私たちは祈る必要があるのです。
 しかしながら、このことは何か抽象的であいまいな教えにとどまるものではありません。それは私に個人的に何かを語らずにはいられないのです。あなたは聖霊を受けたいと願っていますか。あなたは弱いと感じ、「高い所からの力に覆われ」(ルカ24・49)たいですか。あなたは生ぬるいと感じ、熱くされたいですか。渇いているので、水を欲していますか。硬いので、柔らかくされたいですか。過去の生き方に満足せず、新たにされたいですか。祈りなさい、祈りなさい、祈りなさい! ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス、聖霊よ、来てください! この静かな叫びが決して消えてしまわないように。もし信徒一人でも二人以上が祈りや黙想会で集まっても、高い所からの力に覆われて聖霊による洗礼を授けられるまでは決してその場を去るまいと決心したら、その人またはグループはまず彼らが求めていたもの、さらにそれ以上のものを受け取らずにその場を去ることはないでしょう。これこそ、カトリック・カリスマ刷新が始まった最初の黙想会でデュケイン大学の学生たちに起こったことです。
 私たちの祈りは、マリアと使徒たちのように「心を合わせて熱心に」ささげられる祈りでなければなりません。「心を合わせて」、つまり「一致して」(ラテン語訳では「コン・コルデ」、ギリシア語では「ホモスマドン」)は、文字通り、一つの思い、「一つの魂」でなされるという意味です。イエスは言われました。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18・19)。
 マリアと使徒たちの祈りの二つ目の明確な特徴は、「根気強さ」[訳注・新共同訳では「熱心に」、フランシスコ会訳では「ひたすら」]です。キリスト者の祈りのこの性質を表すギリシア語、「プロスカルテレオ」は、粘り強くあきらめない行い、絶えずコツコツ行うことを意味します。それは祈りにおいて「根気強い」あるいは「熱心な」と訳されますが、「決してあきらめず祈りにしがみつく」と訳することもできます。
 「プロスカルテレオ」はとても重要な言葉です。なぜなら、新約聖書では、この特別な祈りの態度を表現するのに最も頻繁に用いられる単語だからです。『使徒言行録』では、聖霊降臨からまもなく、私たちはこの言葉に出会います。使徒たちに仲間として加わった最初の信者たちは、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈りに熱心であった」(使徒2・42)。聖パウロも、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12・12)と信徒たちに懇願しました。『エフェソの信徒への手紙』では、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、(……)絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6・18)と勧告しています。この教えの本質はイエスに由来します。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」(ルカ18・1)を教えるためにしつこいやもめのたとえを使徒たちに話されたのは、イエス御自身でした。
 気落ちすることを良しとせず、ついに自分が望むものを恵みとして受ける粘り強い祈りの生きた手本は、カナンの女です。最初、彼女が自分の娘のいやしを願い求めると、聖書によれば、イエスは「何もお答えにならなかった」。それでもしつこく頼む彼女に、イエスはこうお答えになります。「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない。」それでもイエスの前にひれ伏して願う彼女に、「子供たちのパンをとって小犬にやってはいけない」とお答えになります。何という答え! がっかりするには十分です! それでもカナンの女はあきらめず、反論します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」するとイエスは喜んで叫ばれます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15・21)。
 忍耐して長い間祈ることは、言葉数を多くして「異邦人たちのようにくどくどと述べ」(マタイ6・7)るという意味ではありません。忍耐して祈ることとは、何度でも願い、願うことを決してやめず、希望することを決してやめず、決してあきらめないことでます。それは決して黙しないことであり、主をも黙らせてしまわないことを意味します。「主に思い起こしていただく役目のものよ 決して沈黙してはならない。また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは」(イザヤ62・6−7)。では、なぜ祈りは忍耐強く続けるべきもので、神は速やかにそれを聞いてはくださらないのでしょうか。聖書の中で、御名を呼べばすぐに、あるいは人が祈り終える前にですら、速やかに聞くと約束されたのは、主御自身ではないでしょうか。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける」(イザヤ65・24)。イエスも言われます。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(ルカ18・7)。
 私たちが実際に経験していることは、これらの言葉にあからさまに相反していないでしょうか。いいえ、神はいつも聞いていると約束し、遅れることなく私たちの祈りを聞くと約束されました。そしてそのようになさいます。耳を開かねばならないのは、私たちの方です。主が御自分の約束を守られるというのは100%真実です。助けが遅れていても、主はすでに助けておられます。実は、この遅れこそがすでに一種の助けなのです。
 それは、主が嘆願者の意向をあまりにも早くかなえたいと望んでおられず、むしろその人に完全な回復を確かなものにされたいからです。ここで私たちは、嘆願者の「意向」に沿った願いの成就と「必要」に応じた願いの成就を区別する必要があります。後者の方が、結局は嘆願者の救いになるのです。
 イエスは言われました。「探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7・7)。この御言葉を読んですぐに私たちが思うのは、イエスは私たちが求めるものは何でも与えると約束しておられるのだ、ということです。そしてそれがめったに起こらないと分かると、訳が分からなくなります。しかし、主は実際にただ一つのことを意味されたのです。「わたしを探しなさい。そうすれば、わたしを見つける。門をたたきなさい。そうすれば、わたしがあなたに向けて開く」と。イエスは、私たちのささいな願い事を超えて御自身を与えると約束しておられ、この約束はいついかなるときも変わることなく守られています。イエスを探し求める人は、イエスを見つけます。門をたたく人にはイエスの門の戸が開かれ、一旦このことが起こると他の物事はすべて二の次になります。私たちの祈りの目的が卓越した良い賜物、つまり神ご自身が何にもまして私たちに与えたいと望む賜物、聖霊であるなら、私たちはあらゆる偽りに警戒しなければなりません。
 私たちには、多かれ少なかれ意識的にですが、聖霊とは天からの力強い助け、私たちの祈りや熱意を心地よく生き返らせ、私たちの使命を効果的にし、十字架を担うことをより楽にするために来る命の息吹である、と思い描く傾向があります。あなたは自分の聖霊降臨を願ってこのように何年も祈っていますが、風のような息吹はないように感じられます。あなたが起こるように期待していたことは何一つ起こっていません。聖霊は、私たちの自己中心な思いを強めるためには注がれません。周囲をもっとよく見てごらんなさい。おそらく、あなたが自分自身のために願い求めた聖霊のすべては確かにあなたに与えられましたが、それは他の人たちのためでした。おそらく、あなたの周りにいる人々の祈りはあなたの言葉のおかげで新たにされ、あなたの祈りは以前と変わらず苦労の多いまま続いています。あなたの目の前にいる人々は、自分の心が貫かれ、良心の呵責を感じ、泣き叫びながら悔い改めましたが、あなたはまだその恵みを求めてそこにいるのです。
 神に御自分の自由を喜んで行使していただきましょう。神に御自分本来の自由を差し上げることをあなたの誉れとしましょう。これは、神が御自身の聖霊をあなたに与えようと選ばれたやり方で、最も美しい方法なのです。聖霊降臨の日、使徒たちの中には、神の言葉によって心を刺し貫かれた群衆が悔い改めるのを見て妬みと困惑を感じ、自分はナザレのイエスを十字架につけたことをまだ嘆いてはいないではないかと思った者がいたかもしれません。聖パウロは、説教するたびに聖霊とその力の顕れが伴いましたが、自分の身から一つのとげを取り去ってほしいと三度願っても決して聞かれず、神の力が自分の内に宿るように弱さと共に生きることを受け入れなければなりませんでした(二コリント12・7−9)。
 カリスマ刷新において、祈りはそれ以前と比べると新しい形で顕れています。すなわち集って祈る、グループで祈る形です。この形の祈りに参加した人は、使徒パウロがエフェソの信徒に手紙で書き送ったことの意味を理解するようになります。「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5・18〜20)、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、(……)絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6・18)。
 私たちが知る祈りの基本型は二つだけ、すなわち典礼の祈りと個人の祈りです。典礼の祈りは共同体としての祈りですが、それは形式に従い、自由に自発的な祈りの余地はありません。個人の祈りは形式にとらわれず自由で自発的に祈れますが、共同体の交わりはありません。ですから、私たちに必要なのは、聖霊が導くままに自由で自発的に祈りつつ各自の祈りを互いに分かち合い、様々な才能や霊的賜物を組み合わせ、熱意で互いを豊かにする時、様々な「火の舌」を合わせて一つの炎を形作る時です。つまり、私たちには共同体として自由で自発的に祈る祈りが必要なのです。
 この共同体の自由で自発的な祈り、すなわち「カリスマ的な」祈りの好例が『使徒言行録』4章にあります。ペトロとヨハネは、イエスの名によってこれ以上語ってはならないと命じられた後に牢獄から釈放され、自分たちの共同体の許へ帰り、祈り始めます。一人が、「地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」と聖書の言葉を宣言すると、もう一人は預言の賜物を用い、その御言葉を今の自分たちが置かれている状況に当てはめます。各自の信仰が団結して立ち上がったかのように、いやしとしるしと不思議な業を願い求める勇気を皆に与えました。最後に、最初の聖霊降臨で起こったことが再び起こり、皆が聖霊に満たされ、大胆にキリストを宣べ伝え続けたのです。
 カトリック・カリスマ刷新の奉仕機関の刷新と一元化に際して私たちが聖霊に願い求めるべき特別な賜物は、当初のカリスマ刷新の祈りのグループが体験した驚くべき業が再びよみがえることです。聖霊の臨在を吸い込めるかのように感じ取れた体験、キリストの主権が宣言されるべき真理であるばかりか手で触れることのできそうなほどの経験が、再び回復されることです。忘れないようにしましょう、祈りのグループや集いの祈りは、祈りの集いにもカリスマ的契約共同体にも共通する基本要素であることを。
 上記のどちらの祈りのスタイルでも、私たちは聖霊降臨への準備として祈りの鎖に参加できます。典礼の祈りが好きな人に私が提案するのは、典礼で用いられている聖霊を求める祈りを以下から好みに応じて一つ選び、それを一日数回繰り返し祈ることです。これによって、あなたは私たちに先立ってそれらを祈ってきた数え切れない信者の群れに加わることになります。
 「聖霊、来てください。信じる者の心を満たし、あなたの愛の火を燃やしてください。」
(ラテン語の原文で祈りたい方のために)“Veni, Sancte Spiritus, reple tuorum corda fidelium et tui amoris in eis ignem accende.”
 「主よ、あなたの霊を送って、地の表を新たにしてください。」
 「創り主の聖霊よ、来てください。私たちの心を訪れ、あなたが創られたこの心を天の恵みで満たしてください。」
 英語を話す兄弟姉妹の皆さんには、一人でもグループでも、私たちがペンテコステ派の兄弟たちからいただき、聖霊による洗礼を受けた時に何百万もの信徒たちが歌ったあの歌の言葉を(本来単数形の「私」を複数形の「私たち」に替えて)繰り返すことを提案します。
「生ける神の霊、私たちに新たに降ってください。私たちを溶かし、私たちを形作り、私たちを満たし、私たちを使ってください。生ける神の霊、私たちに新たに降ってください。」
「訳注・日本語訳の歌詞では、すでに複数形の「私たち」になっています。「生ける神の霊、宿りませ。生ける神の霊、私たちを溶かし、作り、満たし、使い、生ける神の霊、宿りませ。」」
 「ヴェニ・クレアトール(創り主の聖霊、来てください)」の祈りについて注釈した私の著書では、私も自分なりの聖霊を求める祈りを作ってみました。これが良いと促しを受ける人に喜んで分かち合いさせていただきます。
 「聖霊、来てください! 神の力と甘美、来てください! 来てください、あなたは動きであり平安!私たちの勇気を新たにしてください。世界の中で私たちの孤独を満たしてください。私たちの内に神との親しさを創り出してください。預言者のように、あなたがどこから来られるのかまだ知らないかのように『四方から吹き来れ』と私たちはもう言いません。私たちはこう言います。『聖霊よ、十字架の上で刺し貫かれたキリストのわき腹から来てください! 復活されたお方の口から来てください!』」

ラニエロ・カンタラメッサ神父(カプチン・フランシスコ修道会)
CHARIS補佐司祭

[訳注・聖書の日本語訳は、特記されない限りすべて新共同訳を使用しています。]

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2019年03月01日