新刊書『悪霊の影響からの解放』の紹介

『悪霊の影響からの解放 「アンバウンド」実践ガイド』(ニール・ロザノ著、小熊晴代監訳 高浜武則訳 カリスプレス発行 1750円)を販売しています。お申込みはカリスプレ(charispress3@gmail.com)宛てにお願いします(送付先、氏名、電話番号、必要冊数を明記してください)。いつくしみセンターWEBショップでも入手可能です。
https://bit.ly/3tbhdIn

参考までに第1章だけご紹介しておきます。

第1章 希望を抱く自由

 イエスは救い主であった。人々が直面していた有害で絶望的な状態からイエスは彼らを救い出した。長年にわたって彼らを過去に縛りつけていた鎖を打ち砕き、未来に向かうことのできる力を与えたのである。
     ウィリアム・バークレー

 「さようなら。ありがとうございました。希望が持てるようになりました!」 アナは19才になるまでに様々なことを見てきました。彼女の父親は広範囲に旅をしていましたが、家にいるときでさえ、気持ちの通い合うことはありませんでした。アナは、アルコール依存症の母親と兄と成長期を過ごし、苦悩と混乱を味わってきました。妻のジャネットと私のところに来たとき、悲しみが彼女を覆っていました。言葉があいまいで、話そうとしても、顔を上げて私たちを直視することができませんでした。彼女は最近、ポーランドにあるライトハウス・フェローシップ教会に来ていて、主を求め始めていました。
 「誰か赦す必要のある人はいますか?」と私たちは尋ねました。
 「はい、います。でも、それを言うと、その人を傷つけてしまいます。」でもそのすぐあと、彼女は自分の母親に言及してしまいました。「母は酒飲みです。」
 「アナ、自由になりたければ、お母さんを赦せるようにイエスに助けていただく必要があります」と私は言いました。「赦す決心をして、それを言葉にするなら、あとのことはイエスがやってくださいます。そうしたいですか?」
 「はい」と彼女は答えました。
 でもアナは、私のあとについて短い祈りを繰り返すことができませんでした。言葉を出すことができなかったのです。私は彼女のために祈り、霊の耳で聴いていると、主が彼女の心を私にお開きになり、私は彼女の孤独と絶望という苦悩を味わいました。「主よ」と私は声に出して祈りました。「アナはずっと混乱のうちに生きてきました。先がどうなるのか全く分かりませんでした。彼女は事態を改善したいと思いましたが、できませんでした。」アナは、すすり泣き始めました。「でも彼女が理解できないのは、なぜ、あなたが何もしてくださらなかったのかということです。あなたが神であり、何でもおできになることを彼女は知っています。彼女はあなたに叫んできました。あなたに求めてきました。夜毎に泣きながら眠りにつきましたが、あなたは答えてくださいませんでした。」
 今やアナは、何年にもわたる苦悩の痛みに耐えきれず、激しく泣きじゃくっていました。ジャネットと通訳者は、神が二人にもアナの苦しみの深さを知ることができるように働かれたので、アナと一緒に泣きました。続いて私は、「主よ、私は理解できません。なぜあなたが何かをしてくださらなかったのか、私には理解できません」と言いました。私たちは皆、主の御前で共に泣きました。
 「さて、アナ。赦せないこと、傷ついていること、苦悩していること、そしてこれらの思いに関係する霊を退けませんか? 『お母さん、私はあなたを赦します』と言ってくれますか」と私は彼女に頼みました。彼女は準備ができていました。他の人々が自分の心の痛みを感じてくれたことを知ったからです。特に大きかったのは、自分の痛みを明るみに出したとき、彼女はそれを新たな視点で見ることができたことでした。
 「お母さん、私は、あなたがお酒を飲んだこと、私を拒絶したこと、あらゆる混乱と痛みをもたらしたことを赦します。私が愛されるべき方法で愛してくれなかったことを赦します。」それから彼女は、悲しみ、自己否定、激しい非難、自己批判を退けました。そして、その時点では自由にされました。私たちには分かっていました、アナにはこれから先も長い旅が続くだろうと。でも、彼女がこれからも神の良き計画を求め、人生に忍び込もうとする悪霊を退けるに当たって、助けてくれる信仰者の交わりのうちに彼女がいることを私たちは嬉しく思いました。
 その翌日、彼女の顔は輝き、その振る舞いは悲しみではなく喜びに満ちていました。私たちは彼女にユーモアのセンスがあることも発見しました。彼女は私たちに会わせようと自分の家族を連れて来てくれました。私たちがその町を発つ前、彼女は一時間以上も一人で待っていて、私たちと一緒に写真を撮り、「ありがとう。希望が持てるようになりました」と言ってくれました。その言葉は今も私たちの心に残っています。

希望への渇望
 アナは、非常に困難で痛ましい状況に置かれていた普通の人間でした。絶望感と失望感がゆっくりと彼女を壊していました。あなたの状況はアナのものとは非常に違うかもしれませんが、あなたの人生に絶望感のにじむ領域がありますか? 状況に何の変化もない中、アナのように来る日も来る日も神に向かって叫んだことがありますか? 神への恨みがあなたの心に忍び込んで、神に近づこうとしても距離を感じるようになっていませんか? 何度も何度も告白しているのに、全く何の変化のないものがありますか?
 希望を必要としていても、それがずっと微妙で、分かっていない人々がいます。長年の友、デイブが助言を求めて私のところに来ました。彼は自分の人生のいくつかの領域で葛藤していたからです。彼が話してくれた領域を退けたいかと尋ねたところ、彼は同意しました。次のように彼は自分の体験を語っています。
 「私はニールと一緒に熱心に祈りましたが、非日常的なことは何も感じませんでした。次にニールは失望感と絶望感の二つを退けることについて話しました。そのとき、何かが起こりました。これらの霊を拒絶しようともがいている自分に気づいたのです。拒絶をしようとすると、様々な感情が二つのそれぞれに結びついているようで、この二つを何とか口にしようともがきました。それを口にしたところ、苦悩と苦痛が浮かび上がってきましたが、関連する霊を退けたときに一緒に出て行きました。それは短時間に、急に、実際に起こったことです。その後、心が落ち着き、安堵を感じました。」
 「祈ってから1週間かそこらで、以前であれば私に非常な苦悩と、そう、つかの間の絶望(もっともそれを失望や絶望と認識することはなかったでしょうが)を感じさせたであろう状況に遭遇しました。ちょっとした不安に襲われましたが、私の感情と思考パターンがもっと低くて暗いレベルに落ちていくことはありませんでした。私をもっと暗い場所に引きずり込んだに違いない思考パターンと感情への扉が閉じられていたと私は信じています。ですが、その扉を閉じたままにするかどうかは私にかかっています。」
 それは私にとっても驚きでした。デイブが熱心なクリスチャンで、いつも人々に奉仕し、彼らを励まそうとしているのを私は知っていたからです。実は、15年以上も前、彼は非常に尊敬していた人から裏切られたのです。彼はもうそれは解決したと思っていました。でも、その状況下で、デイブも周りの人々にも気づかれず隠れたまま、絶望の霊がデイブに入り込み、そこにとどまっていたのです。
 何らかの形で、デイブは自分に希望がないことを受け入れるようになっていました。もしかしたらあなたも、自分の人生のある領域で絶望を感じ、その絶望を感じなくさせる方法を模索しているかもしれません。私たちの中には次のように考え方を変える人々がいます。「自分はこうなのだ。私はもともとこういう人間なのだ」、「私はこれとずっと付き合っていかなければならないだろう」、「これはそんなに悪いことではない。何とか切り抜けるさ。」

落胆のあまり希望が持てない?
 自由にされる前、過食に悩んでいた友人がいました。彼女は次のように書きました。「最近、私はお腹がすいていないときに食べてしまい、まるで滑りやすい坂をどんどん転げ落ちていくようでした。空腹のときだけでなく、怒っているとき、イライラしているとき、あるいは一人でいるときにも食べるようになりました。最悪! 減量していた数キロの体重が絶望感、罪責感、怒り、憂うつと一緒に戻って来た! 私はとても苛立っていました。どうしたらよいか分かってはいたのに、まだ振る舞いを変えていませんでしたし、神から切り離されている感じがしました。食事制限を守ることができるようになるまで、神に聞くことも神に近づくこともできそうにないといった感じでした。そのような考え方に伴い、罪責感と咎めの感情が一緒にやってくるのをあなたは簡単に想像できると思います。とにかく、控え目に言っても、私はどうにもならなくなってしまい、もがいてきました。体重オーバーで、それを抑制できない自分にとてもうんざりしています。」
 あなたには彼女のジレンマが分かりますか? 次のような手強い砦に置き換えられるのではありませんか。「拒絶されるのではと恐れています」、「私は完璧な状態でなければ落ち着きません」、「私はポルノ中毒です」、「私は死に対する恐れがあります」、「私は棄てられるのが怖いです」、「私は赦せません」、「私は自殺を考えています。」
 もちろん、これらは悪霊の働きだけに起因しているのではありませんが、神の癒しを追求する際に気づかれることなく見過ごされてきた領域に違いありません。
 箴言13:12は、「望みがかなえられないと心が病み 願いがかなうと命の木を得たようだ」と書いています。希望とは良きものを確信を持って期待することであり、究極の良きものとは天国です。聖書は、私たちの内におられるキリストが一番の希望、栄光の希望(コロサイ1:27)であると語っています。福音の力は、縛られている私たちに天国の希望を提供するだけでしょうか。違います。コロサイ1:13-14は、「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」と書いています。
 私たちはすでに一つの王国から別の王国へと救い出され(移され、解放され)ていますが、それはまだ完全に成就しているのではありません。私は、荒れ野をさまよっているイスラエルの子らのことを考えます。神はモーセを通して、強制労働を課すエジプト人の監督下から彼らを救い出されましたが、彼らは依然として奴隷のメンタリティーにしがみついていました。一代目のイスラエルの民は全員、神が彼らに与えてくださった約束を持ちながら、神に協力できるようになる前に荒れ野で死んでしまいました。打ち砕かれるべき「奴隷のメンタリティー」をあなたはまだ持っていますか?

失望のあまり助けを求めることができない?
 あなたは、もしかしたら何年も前に解放の祈りを受けたときのことがひどいトラウマになっていて、もう二度とこんなことをしたくないと思っているかもしれません。誰かに祈ってもらってもうまくいかなかったとか、一番傷つきやすいときだったのに祈ってくれた人々が愛と敬意を示さなかったかもしれません。悪霊からの解放の祈りについて歪んだイメージを持っており、「これって、私に悪霊が取りついているかもしれないっていうこと?」と考えて気分が悪くなる人もいるでしょう。
 あなたは、もしかしたら過去何年間も繰り返し牧師や司祭のところに行っているかもしれません。自分の罪を告白して、良いアドバイスを受けたでしょう。しかし、するべきことや祈るべき祈りを教わり、悪を避けなさいと励まされ、あなたの考えや行動を自制する方法を学んだのに、失敗を繰り返して絶望感が増すばかり、という状況かもしれません。
 あなたは、もしかしたらカウンセリングに行ったことがあり、それが本当に助けになったかもしれません。おかげで今は自分がどうしてそのようなことをするのか分かっていますが、内なる人は変わっていません。長年カウンセラーのところに通ったかもしれませんが、変化がほとんど見られないので、何とか対処できる以上のことをもはや期待もしなくなっています。
 あなたは他の多くの人々と同じかもしれません。カウンセリングのことを考えますが、かかる費用や自分の高慢のため、決して助けを求めて電話をすることはないのです。私は、あなたがもう一度、助けを求めて電話をかけ、誰かと話をすることを願っています。私たちは皆、よく聴き理解してくれる賢明なカウンセラーから大きな助けを受けることができるのです。
 専門訓練を受けたカウンセラーは、恵みであり、重要な助け手です。でも、救い主はただ一人です。残念なことに、このような必要を覚える人々に対して司祭(牧師)や教会の指導者たちは自分たちが無力だと感じています。あたかも福音には力がないかのようです。問題が表面化すると、キリスト者の多くはすぐに専門カウンセラーに丸投げされてしまいます。でも、福音の力は、才能あるカウンセラーの持つ力よりもはるかに大きいのです(もちろん両者が協力すればすばらしい実りがありますが)。カウンセリングが必要であるなら、司牧(牧会)に携わる人々は、魂の傷に働きかけるために、カウンセラーと共に働く方法を知っておく必要があります。

新しい御国
 イエスは言われました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。これらの言葉を、マルコによる福音書は、イエスが荒れ野で40日とどまった後に初めて語られた言葉として記録しています。イエスは「新しいモーセ」であり、サタンの縛りを破壊し、私たちをサタンの支配下から導き出されます。イエスは「新しいヨシュア」であり、私たちを神の国へと導かれます。そこでは、神ご自身が支配され、神の律法は私たちの心に刻まれます。
 ある日、洗礼者ヨハネの弟子たちがイエスに、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねました。彼らの面前で、イエスは、病人、目の見えない者たち、悪霊に悩む人々を癒されました。そして、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と答えられました(ルカ7:20-22)。抑圧下にいた人々は神の国の現れを経験していました。これは良き知らせです! 傷つき、抑圧された人々は、束縛や病いから自由にされ、御国に入りつつあったのです。
 古代では、王が町を征服すると、良き知らせを宣言するために使者を遣わしました。「新しい生き方がある。あなたがたは今や新しい権威のもとで生きる!」と告げるためです。使者は、新しい支配者の名前と、その支配下で生きた場合に得られる大きな恩恵を宣言しました。この宣言に協力するかどうかは、生きるか死ぬかの問題でした。
 良き知らせとは、イエス・キリストが私たちの王となられたことです。イエスはサタンを打ち負かし、私たちの負債をすべて取り消してくださいました。私たちの最大の解放は、救い主であるイエスに服従することからやってきます。今や私たちは、イエスの支配を選び、イエスの御霊に服従しているので、もはや古い王の支配下に生きてはいません。あなたは新しい権威の下に置かれています。新しい御国の中に生きています。悪霊の影響からの解放は、私たちの人生で新しい領域を取ろうとする神の主導に応答するたびに深められます。

御国の祝福
 悪霊の影響からの自由は、それ自体が目的ではありません。神が御子にあって与えてくださっている祝福を余すところなく受け、御子の弟子となることが目的です。解放は、私たちを束縛から祝福へと解き放ちます。ヘブライ語で「祝福する(バラク)」は、誰かを強めて繁栄させ、成功させ、豊かに成長させることを意味します。すべての祝福の源は神です。6日目に男と女を造られた後、神は彼らを祝福し、「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記1:28)と言われました。口で祝福を語ることは、神の道具となることです。
 聖書の時代、口で語られる祝福は、旅路の保護と助けを意味しました。それは、人生の旅路のために恵みを与えることを意味したのです。祝福とは人を誉めるという意味です。呪いの反対です。神の祝福を認識することと、私たちが他の人々を祝福する必要は、古代のユダヤ文化に非常に深く根づいていたので、「シャローム」という言葉は今も挨拶として用いられています。「シャローム」は、平和、完全、調和、健康、平安を意味します。これは、エレミヤ29:11に見られる神のご計画にまとめられています。「あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている―主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。」ここでは「シャローム」という単語が「災いではなく平安の計画」という語句に訳されています。
 これこそ神が私たちのために最初から意図されていたことであり、今や私たちはキリストにあってあらゆる霊の祝福を得ています(エフェソ1:3)。祝福を得ているということは、究極的には、私たちがキリストと、キリストにおける私たちのアイデンティティーと定めを知るという意味です。それは、神が私たちの将来のために特別な計画を持っておられると知ることです。
 私たちが御父の祝福を受けることを求めるのであれば、神がどのように祝福を語ってイエスに吹き入れられたのかに注目し、それを手本とするとよいでしょう。イエスは公生活を始める前、洗礼を受けるためにヨハネのところに来られました。ヨハネはイエスが悔い改めの洗礼を必要としないことを知っていたので、「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」(マタイ3:14)と言いました。でもイエスは、地上の私たちと同じ人間になるために来ておられました。神でありながら、イエスは私たちの罪となられたのです。いけにえとなる「神の小羊」は、死ぬために来られました。そうすれば、私たちを贖い、神の慈しみを受ける入り口となれるからです。イエスの洗礼は、救いをもたらす「神の小羊」というご自分の定めをイエスがすべて受け入れた最初の行為として記録されています。イエスが水の中から上がられると、神の霊がイエスの上に降り、「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタイ3:17)という声が天から聞こえました。神は、イエスが誰なのか、そしてご自分が父としてイエスを喜んでいることを宣言しておられたのです。痛みと苦しみに満ちたこの世に来られたイエスは、御父の恵みである祝福を携えて来られたのです。ローマ5:10は、イエスは私たちを神と和解させるために来られた、と言っています。イエスの受けられたこの祝福は、私たちにも与えられています。キリストにあって、次の御言葉が伝える関係は私たちに属しています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい」(一ヨハネ3:1)。
 祝福の言葉は、私たちのアイデンティティーを肯定し、私たちの定めを成就できるよう私たちを整えてくれます。私たち一人ひとりが目的を持っています。それは、神のご計画の神秘が明らかにされていく上で何らかの貢献をすることであり、私たちを永遠へと招いてくださったお方に賛美と誉れをささげることになる何かです。

 キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。それは、キリストに以前から希望を抱いている私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
     エフェソ1:11-12

 霊的束縛からの解放は、神が御子にあって与えておられる祝福を私たちが自由に受けるようにしてくれますが、それは、私たちが神の栄光をほめたたえる存在として生きるためです。神が私たちのためにキリストにおいて備えておられるものすべてを私たちが求めるとき、神は喜ばれます。

求めるには、ほんの少しの希望があれば十分
 神は私たちに祝福を求めるよう願っておられます。私は旧約聖書のヤコブの話が好きです。それは彼が間違いのない生活を送ったからではなく、祝福されることをとても必死に願ったからです。ヤコブは、神が祖父アブラハムを祝福したことを知っており、母親と策略を企てて兄のエサウから長子の権利を奪おうとしました。それを実行した後、ヤコブは家から逃走しました。歳月を経て、彼は家に帰ってエサウと顔を合わせなければならないと考えました。ここで創世記は、ヤコブの人生における絶体絶命の出来事をもう一つ記録します。苦悩の夜に、ついに自分自身についての真実に直面し、ヤコブは、(人間の形を取られた)神と夜明けまで格闘したのです(創世記32:24参照)。ヤコブに勝てないのを見て、主はヤコブの股関節に一撃を与えてそれを外しました。神がヤコブに勝てなかったとは、想像するだけでも不思議です。打ち負かされずにすんだヤコブには一体何があったのでしょうか? 彼の心身は細部まで疲労していたに違いありませんし、股関節はひどく痛んだことでしょう。それなのに彼は手を離しませんでした。ついに、その人はヤコブに、「放してくれ。夜が明けてしまう」と言います。それに対してヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは放しません」と答えます。ヤコブは止めようとはしませんでした。ヤコブは一晩中、神と格闘し、傷を負っていましたが、神の祝福を受けるまで、神を去らせることを拒みました。ヤコブはもはや、繁栄するために自分自身の持っているものに頼る必要はなかったのです。格闘しながら、ヤコブは、自分の平安と将来についての神のご計画に自らを委ねたのです。神は本当にヤコブを祝福し、さらに彼の名前をイスラエルと変え、息子たちをヘブライ人の12部族の父祖とされました。
 あなたは神の祝福を求めていますか。あなたは一晩中、格闘したかのようですか? あるいは人生を通じて格闘してきたかのようですか? もしかしたら、あなたは困難な時を通り抜けてきたかもしれません。あなたの痛みはあからさまになりました。ヤコブのように、あなたは傷ついていて、二度と元には戻れないと分かっています。もしかしたら今は夜明けで、あなたは手を離そうとしているところかもしれません。今は、「祝福してくださるまでは放しません」ともう一度言うときです。
 もしかしたらあなたは、「私は自由になりたい。神が私のために計画された祝福を知りたいけれど、ヤコブのような力がない」と言っているかもしれません。神は、あなたが今いるところであなたに出会い、あなたと共に働きたいと願っておられると確信してください。神は、あなたが神の方に向き、求めることを願っておられます。
 私は後の章で、成功への階段を順調に駆け上る青年マイクについて分かち合います。神の放蕩息子の一人として、彼が神のもとに戻る霊的な旅は、彼のクリスチャンの友人が発した簡単な要請をもって始まりました。彼女は、彼の霊的飢え渇きを感じ取って、こう言ったのです。「私のところに来て、私をつかまえてください、とイエス様にお願いすればいいのよ」と。
 これは良いスタート地点です。「イエス様、私のところに来て、私をつかまえてください」とただ祈ってください。何度もそう言ってください。声に出したり、心の中で唱えたりしてください。「イエス様、もしあなたが本当におられるなら、私に示してください」と言っても構いません。あるいは単に、「主よ、助けてください」と言うこともできます。助けは私たちが期待するときに期待する方法で来るとは限りません。アナは答えを得るまでそんなに長い間待たなければならないとは思いませんでした。また、彼女を助けるために地球を半周するほど遠くから神が誰かを送ってくださるとは期待していませんでした。でも、あなたは確信することができます。あなたが願うと、神は聞いてくださり、神の応答はすでにあなたのもとに向かっているのです(マタイ7:7参照)。
 あなたは願わなくてはなりません。他の誰もあなたのために願うことはできません。自由への旅路は、神の恵みと、あなたの内に働いておられる聖霊の力なしには始まりません。イエスはあなたを救い自由にするために死なれました。悪霊の影響から自由になることは、キリストにあって私たちに与えられている新しい命をもっと深く経験するための入り口です。

読み続けてください
 次の章で、私たちの敵である悪魔の実体について、そして、神の子どもとしての定めを歩もうとしている私たちを悪魔がどのようにして妨害しようとしているかを見ていきます。パート1のその後の章では、悪霊の束縛から私たちを解放する五つの霊的鍵について取り上げます。私は鍵を比喩として用います。なぜなら、鍵には扉を施錠するためと開錠するためという二重の目的があるからです。
 悪霊は、開かれている扉を通して人の人生に影響を与えようとします。その扉は、しばしば、子ども時代に自分自身か他の人々によって開けられたものです。この開かれた扉から入り込んだサタンの嘘や偽りは、神の国の祝福に近づこうとする私たちに制限を加えてしまいます。本書で提示されている鍵を用いると、私たちは悪霊が影響を与えるために入り込んでいる扉を閉じると同時に、キリストが私たちを自由にし、祝福をお与えになるための扉を開けることができます。
 これから分かってきますが、これは一生に一度だけの華々しい開店セールのようなものでも閉店セールのようなものでもありません。むしろ、私たちが新しい自由を求めて見つけていくたびに、聖霊はより深いレベルで私たちを束縛から解放してくださいます。神が私たちを解放し祝福されるのは、私たちが他の人々を祝福するようになるためです。パート2では、他の誰かがキリストにおける解放の賜物を受けるためにあなたがどのように助けることができるかについて教えます。
 あなたがどの段階や立場にいようと、そのままのあなたで、ただ読み続けてください。ページをめくって2章に到達するなら、それ自体、希望へとつながる努力です。私たちのところに来たときのアナはほとんど何も期待していませんでした。私たちが彼女の友人のために祈ったことを知って、自分も試してみようと軽い気持ちで来ただけでした。でも帰るときの彼女には希望があり、新たなスタートを切ることができました。もしあなたが読み進めるならば、アナと同じ機会を持つようになります。どのように希望の賜物を引き起こすか、そしてあなたを束縛しているものへの執着を打ち壊すか、さらにあなたを傷つけた人々を解き放つかを学ぶようになります。神があなたの人生に対する特別な目的を啓示されていくにつれて、敵の力が打ち砕かれ、あなたが神の力と協力できるようになっていることに気づくことでしょう。

 そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
     ルカ11:9-10

 イエス様、私のところに来て、私をつかまえてください。あなたの愛で私の心をつかまえてください。私にはヤコブのような力はありません。キリストにあって持つことのできる自由と祝福、それを求める勇気を私にお与えください。この本を用いて、私の希望を新たにし、私がまだあなたに明け渡していない領域を明らかにしてください。あなたが私の人生とアイデンティティーと定めについて持っておられる計画をお示しください。他の人々にとって私が祝福となれるように、私を祝福してください。

2021年05月03日