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アズベリーのリバイバルと、私たちの祈りのグループや契約共同体での反響について

 

                        ブエノスアイレス 2023年2月24日
カトリック聖霊による刷新の仲間たちへ

アズベリーのリバイバルと、私たちの祈りのグループや契約共同体での反響について

 すでにご承知のことと思いますが、2023年2月8日、アズベリー・メソジスト大学(米国ケンタッキー州)の一部の若者たちが、学生のための祈りの集いを企画しました。
 その日、穏やかで深い祈りの精神がキャンパスに浸透し、今日まで礼拝が途切れることなく続いています。時間が経つにつれ、アズベリー、近隣の町、他州、他国からも人々が参加しました。
アズベリーは人口6,000人ほどの町ですが、これまでに10万人ほどの人が経験したと言われています。CHARISのメンバーや支持者の中には、この体験に参加するためにアズベリーに足を運び、それを目撃した人もいるようです。
 「礼拝では、大げさな感情の発散はなく、祈りをリードする個人的なリーダーシップもない。」「まるで、みんなが集団で祈りを組み立てているかのようです。」「参加者のほぼ全員が、神の愛の臨在と信仰の活性化を経験したと言っている。」
 同様の集会は、他の近隣の諸大学でも開催され、さらに他の国々でも開催されています。
 これらのエピソードを完全に見極めるのは時期尚早ですが、確かなことは、神は私たちが神の現存と愛をこれまで以上に強く感じ続けることを望んでおられるということです。
 カトリック聖霊による刷新では、このようなリバイバルと聖霊の注ぎのエピソードをよく理解しています。私たち自身が、1967年に米国ピッツバーグのカトリック校、デュケイン大学で起こった聖霊の注ぎの実りです。
 アズベリーのエピソードの後、世界中の多くのカリスマ刷新グループにおいて、来るべき日々に向けて祈りと礼拝と賛美の集いが準備されています。
 CHARISから皆さんへお伝えしたいのは、以下の通りです。
- 私たちは、あなたが感じたインスピレーションに従うことを勧めます。
- 今、あなたも祈りながら、恵みの時を生きている兄弟姉妹と共に歩んでください。
- 私たちは、聖霊がお望みのままに、お望みの場所で、お望みの時に吹いてくださることを知っています。ですから、そこで起こっていることを同じように再現するのではなく、礼拝し耳を傾ける時間を造り、聖霊の働きのために空間を造ることが重要なのです。
- 私たちは、神との個人的な出会いの恵みを求め続けましょう。
- きっと神は私たちに多くのことを語りかけ、多くの賜物を与えてくださることでしょう。
- 上記のリバイバルのように、祈りを共同体のすべきこととしましょう。
- このようなイベントを企画する人たちが、常に識別力と慎重さを持ち、地元の教会との連帯のもとでそれを行うことができますようにと願います。

                CHARIS (カトリック聖霊による刷新国際奉仕会)
                       モデレーター ピノ・スカフーロ

[日本語訳:全国コムニオ奉仕会]

2023年03月05日

カリス聖霊降臨前夜祭2021に寄せて  ラニエロ・カンタラメッサ枢機卿

ラニエロ・カンタラメッサ枢機卿の動画メッセージ
(英語字幕からの日本語訳)

https://www.youtube.com/watch?v=5E8LoynOrLw&t=5s

親愛なるカトリック聖霊による刷新の兄弟姉妹の皆さん、

カリス(CHARIS)が主催するオンライン聖霊降臨前夜祭への参加を皆さんに呼びかけるよう依頼されたので、私は今、心から喜んでそうしています。これは、聖霊による刷新を体験している他のキリスト教会の兄弟姉妹も参加する、真にエキュメニカルな前夜祭となるでしょう。ですからなおのこと、この機会を逃す手はありません。

私たちは毎年、新たな聖霊の注ぎを経験したいという大きな憧れを抱きながら聖霊降臨を待ち望んでいます。聖霊は私たちの人生のエネルギーです。イエスは、弟子たちを残して地上を去る前に、彼らにこう言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」携帯電話など仕事道具の電源を入れたときに、バッテリーが切れていることに気づいた経験は誰にでもあるでしょう。全く動かず、お手上げです。このような不便は、霊の領域でも起こります。私たちはバッテリーを再充電する必要があります。接続すべき電源は、恵みの力です。プラグをもう一度コンセントに差し込まなければなりません。これは提案というよりも、私の願いと必要性を皆さんと共有しています。それは、「立ち帰って、子供に戻ること」です!

イエスが使徒たちに語られた言葉を思い出しましょう。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ 18・4)。
カトリック聖霊による刷新に身を置く私たちにとって、子供に戻るとはどのようなことでしょう か? それは、自分が初心者であると認識することです。私たちは、キリストがご自分の教会に願っておられる真の「刷新」とは何かをこれから発見しようとしている初心者なのです。それは、自分自身を聖霊の「プロ」とみなすことをやめ、単純で素直な「修練者」、いや、それ以前の「志願者」になることを意味します。このような人々が、聖霊に「来てください!」と初めてであるかのように頼むことができるのです。

私はいつもパウロの例に感銘を受けます。『フィリピの信徒への手紙』の中で、彼はこう言っています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、(……)目標を目指してひたすら走ることです」(フィリ3・13〜14)。パウロはどんな過去のことを言っているのでしょうか。ファリサイ派だった頃の過去を言っているのではありません。パウロはそれをすでに「塵あくた」と断言しています。そうではなく、彼が話しているのは使徒としての過去のことです。福音を宣べ伝え、新しい教会を次々と設立していったこと、キリストに仕えた過去のことを言っているのであって、回心する前のことではありません。自分の正義を構築し、権利を主張することの危険性を察知したパウロは、私たちに救済策を示しているのです。

カトリック聖霊による刷新には、あらゆるレベルにおいてこの再出発が極めて必要です。それはまた、キリスト者の一致に向けて前進する最も効果的な方法でもあります。謙遜は、一致への道です。聖霊は、風がそうであるように、空っぽの状態を愛しておられます。聖霊の働きは満たすことだからです。私たちは、子供たちの空っぽの心を再び聖霊に見つけていただくことができるでしょうか。これは私自身の祈りであり、今年の皆さんの祈りでもあるように望んでいます。

この場を借りて、カリスの補佐司祭として支援のお願いです。このパンデミックによる困難な時期に、カトリック聖霊による刷新全体からカリスの国際奉仕へ、祈りと忠実な協力による支援をお願いします。これは、私たちの謙遜と教会への従順を試す場のようなものです。
というのも、ご存知のように、この組織は教皇自身の希望によって教皇自らの主導で生まれたものだからです。それは教皇からの贈り物であり、私たちは教皇フランシスコにいくら感謝しても足りません。

皆さん、聖霊降臨おめでとう!


[日本語訳・小熊晴代]

2021年05月21日

マイケル・スキャンラン神父のもう一つの預言

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ラルフ・マーティン|2020年7月13日

兄弟姉妹の皆さん、

私はラルフ・マーティンと申します。リニューアル・ミニストリーの会長であり、聖心大神学校で教えています。マイケル・スキャンラン神父を通して与えられた預言について私が最近解説した動画には大きな反響がありました。スキャンラン神父はステューベンヴィル・フランシスカン大学の学長を25年間務め、いろいろな意味で同大学を現在の米国随一のカトリック大学に導いた方です。

その動画を2週間足らずで15万4千人が視聴しました。これまでに、日本語、スペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、ドイツ語の5言語に翻訳されました。文字通り世界中を回って、人々が感じていること、経験していること、見ていることを理解し、私たちが求められている応答を理解し、また主がこのことに手をかけておられることを理解できるようその動画は助けています。主はこのことを予め知っておられ、そこから良い結果をもたらす計画をお持ちですが、私たちは、主が招いておられる主ご自身との交わりとお互いの交わりを築く必要があります。私がその動画で強調したのはそこでした。まだご覧になっていない方は、ぜひご覧ください。(ここから視聴できます。)自分の耳でそれを聞くことは大切です。

私がその動画で言ったことについて、人々から質問がいくつか出てきました。一つは、「預言とは何ですか? マイク神父は預言の賜物を持っていた、とはどういう意味ですか?」です。私たちがよく知っているのは旧約聖書の預言者たちですね。エレミヤ、エゼキエル、イザヤ、それに小預言者たちのメッセージは今では正典として聖書の一部となっています。

一方、新約聖書の預言者もいることに多くの人は気付いていません。たとえば、『エフェソの信徒への手紙』4章ではパウロがこう教えています。天に昇って父のもとに帰られたキリストは、今や、使徒、預言者、牧者、教師、福音宣教者など指導者の賜物を教会に授けておられるが、それは指導者たちだけで教会のすべての働きをするためではなく、「聖なる者たちが奉仕の業に適した者とされ」るため、つまり洗礼を受けた私たちを助けるためである、と。当時のキリスト者たちは聖徒、聖なる者と自称していました。なぜなら、私たちは洗礼の水によって聖なる者とされ、主ご自身が私たちの内に宿っておられ、キリストにあって私たちは一つの霊、一つの体であるからです。私たちは聖霊の神殿ですから、私たち全員が持っている基本的な聖性があります。

これらの指導者の賜物は教会で極めて重要な働きをすることになっていますが、私たちはその中のいくつか、特に使徒や預言者にはあまり注目してきませんでした。公式の使徒として司教の位階制があり、公式の教師、牧者、福音宣教者として小教区を司牧する司祭がいますが、最も見落とされているカリスマ、奉仕のための賜物の一つが預言者の賜物です。イエスが実際に自己認識された主な姿、そして地上の公生活の間に他の人々に思われていたアイデンティティは、預言者でした。今ここですべて説明することはできませんが、私が最近執筆した『預言者としての司祭』という50ページの小冊子では、私たちがイエスと一致するとはどういうことかについて話しています。(ここから購入できます。)洗礼を受けたすべての人に関連していますが、特に司祭に向けて書かれています。司祭の預言者としての役割は、単に短くて良質で正統派の説教をするだけではありません。それ以上の何かがあるのです。人を燃え立たせる炎があります。これが新約聖書の預言者です。

アンティオキアの教会には預言者がいた、と新約聖書には記されています。バルナバやパウロをはじめ、様々な人たちが教師や預言者であったと書かれています。彼らが祈って断食していると、預言の言葉が与えられ、バルナバとパウロを選び出して宣教に遣わしなさいと言いました。このように、新約聖書の時代、初代教会には、預言の賜物を持つ人たちがいました。この預言の賜物は、未来を予告することが第一の役目ではありません。それはまず何よりも、神の計画と神の御言葉について洞察を与え、公の啓示で明らかにされていることに私たちを呼び戻すことです。このような預言をテストする方法の一つは、それが聖書と聖伝とカトリック教会のカテキズムで啓示された神の言葉と一致しているか確かめることです。

前回の動画で私が引用したマイク神父の預言は、イエスが聖書の中でいつも私たちに求めておられることに他なりません。イエスは、「自分の持ちものを一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(ルカ14・33)と言われます。また、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである」(ヨハネ12・24)と言われました。

さて、前回の動画について寄せられたもう一つの質問についてお話しします。「 『家庭教会(ハウス・チャーチ)』とはどういう意味ですか?」です。マイケル神父の預言によると、私たちは既存の体制・建築物に頼ることができなくなるかもしれません。私たちの知る小教区や学校は閉鎖の一途をたどっていますし、世界中で私たちの教会自体が3ヶ月間も閉鎖されるとは誰が想像したでしょうか? もしまた同じようなことが起きたら、私たちはどうすればいいのでしょうか? 私が皆さんに伝えたかったのは、初代教会は、その誕生から300年間、教会の建物を持っていなかったことです。信者たちは家庭で集まっていました。中庭や大きな家や小さな家で集まりました。そこで教会の命は滋養を与えられ、育まれ、教えを受け、そこで感謝の祭儀が行われていたのです。

また、様々な時代に、たとえば日本や韓国のような国では、司祭が追放され、恐ろしい迫害が起こりました。時には二百年もの間、司祭は入国も滞在も許されず、ミサも執り行われませんでしたが、信徒たちは互いにつながりを持ち、キリストに忠実であり、教えられたことを守り続けたため、宣教師が戻って来るまで教会を存続させていたのです。そのようなことにならないことを願っていますが、私たちは少しだけ警告を受けました。ひょっとしてそうなるかもしれないし、私たちは備えていなければならないのです。私たちと主との交わりは建物に依存するものではなく、建物はミサと同じくらい重要ですが、たとえミサを奪われても、イエスを奪われたわけではないことを私たちは知る必要があります。イエスは私たちの内に宿っておられ、御言葉を通して私たちのところに来ておられるのです。

さて、マイク神父からの最初の預言について、もう一つお伝えしたいと思います。預言の中でこのように問われていましたね。「あなたは自分の金銭がすべて無価値になるのを見る覚悟はあるか? あなたの愛する国がもはや国ではなくなってしまうのを見る覚悟があるか? あなたの教会が閉鎖されるのを見る覚悟ができているか?」と。私の答えを知りたいですか? 答えはノー、覚悟はできていません。私はここアメリカ合衆国の経済繁栄が好きです。私たちの教会が好きです。ミシガン州アナーバーの小教区を愛しています。教会の建物を愛しています。秘跡に頻繁に簡単に与れることを愛しています。住んでいる市が安定していることを愛しています。人々が911番に電話すると警察が来てくれることを愛しています。犯罪が起きても誰かがそこにいて罪のない市民とその営みを守ってくれることを愛していますし、無法行為が激発するのを見たくありません。警察の権威に裏打ちされていないという理由で電話に出るのを恐れている警察官は見たくありません。私はそのようなことは望んでいませんし、どれ一つとして受け入れる覚悟はありません。ちょうどイエスがゲツセマネの園で苦しみ悶えながら言われたのと同じです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」でもその後、こう言われました。「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

ですから、そこが私の行き着く先です。今言ったようなことが起こらないようにと願っています。それらが起こることを望んではいませんが、教会の清めのために必要であれば、世に衝撃を与え、「目を覚まして、あなたの偶像崇拝から離れ、主ではないものに執着しているすべてのものから離れ、あなたの不信仰から離れよ」と言うために必要であれば、それは魂の救いのためなので、私は覚悟して受け入れます。そして、一人の魂を救うためにはどんな手段も極端すぎるものではありません。教会が主の望んでおられるイエス・キリストの教会であるためには、どんな手段も極端すぎるものではありません。

マイク・スキャンラン神父のもう一つの預言を発見しましたが、これも私たちが注意を払う必要がある本当に重要な預言だと思います。それは先に紹介した預言よりも長く、ある特定の部分は特定のグループに向けられていますが、本当に今日的な意味を帯びていることがたくさんありますので、今しばらく時間をかけてマイケル神父のもう一つの預言について話したいと思います。

預言の全文は、私たちのウェブサイトに掲載されています。彼は1980年にこの預言をしましたが、それは先ほど話した預言の4年後のことです。これはかなり長いので、すべての部分を説明するつもりはありませんが、本当に今の私たちと直結する部分があります。預言は次のように始まります。

「主なる神はこう言われる。『私の言葉を聞け。私の祝福と賜物が際立った時は、今や、私の裁きと清めが際立つ時期に取って代わられようとしている。私が祝福と賜物によって成し遂げていないことを、私は裁きと清めによって成し遂げる。私の民、私の教会には、この裁きが何としても必要である。彼らは世の霊と姦淫を行い続けている。』」

率直に言って、先進国に住んでいる私たち、特に北米やヨーロッパに住んでいる私たちにとって、世界の歴史の中で私たちほど多くのものに恵まれた世代はありませんでした。第二次世界大戦が終わってからは、基本的に平和な時代になりました。医療技術は驚異的に進歩しました。あらゆる種類の技術が途方もない進歩を遂げてきました。私たちは繁栄を謳歌してきました。私たちは平和を保ってきました。私たちの大方の国々では安定が維持されてきました。私たちはとても恵まれています。私たちは豊富な食料を持っています。私たちは計り知れないほど祝福を受けてきたのです。

そして、こう言うと本当に奇妙ですが、本当に真実です。私たちの国々でカトリック信者がより多くの教育を受ければ受けるほど、彼らはますます信じなくなるのです。アイルランドのようなカトリックの国が繁栄すればするほど、彼らはますます信じなくなり、イエスに従わなくなります。私たちの繁栄は主からのとてつもない祝福ですが、私たちの多くはその繁栄に対してこう応えてきました。「私たちは物事をコントロールできている。必要なものは手に入れた。神は必要ない。」

祝福、平和な時代、良質な食べ物、医療技術など、他にも国の基本的な安定のために必要なものすべてについて神に感謝するよりむしろ、私たちはそれらを当たり前のように受け止めてきました。残念なことに、私たちの多くは流されて、世と妥協し生温い生き方に甘んじています。この預言で、世の霊と姦淫を行い続けていると言われているとおりです。

預言はこう続きます。「サタンは行きたい所に行き、思いどおりに人を選んで感染させている。サタンは、私の民のどこにでも自由に出入りしている。私はこれを許さずにはおかない。」残念ながら、私はずっと前からこのことに気づいていました。『エフェソの信徒への手紙』6章を読むと、私たちが直面している霊的な戦いについて書かれています。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者(……)を相手にするものなのです」とパウロは言っています(エフェソ6・12)。

続いてパウロは、霊の暗闇と霊的な戦いと霊的な攻撃に対抗するためには、私たちが神の武具で完全武装する必要があると説きます。すなわち、救いの兜、聖性と義の胸当てを身につけ、特に信仰の盾を取って悪い者の放つ火を消すように勧めます。兄弟姉妹の皆さん、その悪い者は今日、地の面にいるすべての人に火の矢を放っています。ですから、私たちが信仰の盾を取らなければ、格好の標的として騙されてしまいます。私たちが信仰という盾にしっかり根差していなければ、サタンは私たちの生活にも精神にも魂にも感情にも行動にも入り込んで自由に操ろうとするでしょう。

信仰の盾とは何でしょうか? イエスご自身です。イエスに信頼し、同時にイエスが実際に教えておられる御言葉の知識に信頼することです。『ヘブライ人への手紙』には、イエスは御自分を信じる人々の救いの源であると書かれています(ヘブライ5・9)。イエスの御言葉を知らなければ、私たちは何をすべきか、どのように行動すべきか、何を信じればいいのかが分かりません。今日、多くの人がイエスに従っていると言っていますが、イエスが何を言っておられるのかに注意を払っていません。

ピーター・クリーフトは『イエス・ショック(Jesus Shock)』という本を書いていますが、イエスの言うことは本当に衝撃的です。私が話したマイク神父の前回の預言は、「これらすべてを手放す覚悟ができているか? これらなしで生きる準備ができているか?」と呼びかけていました。とても過激に聞こえますが、これは、イエスが福音書ですべての人に言っていることと同じです。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたはわたしの弟子としてふさわしくない」とイエスは言われます。

過激です。衝撃です。イエスは私たちにショックを与えて現実を直視させようとしておられます。私たちにショックを与えて健全な者に回復させようとしておられます。私たちを聖性と愛と永遠の命に目覚めさせるために衝撃を与えておられるのです。もし私たちがイエスの御言葉に注意を払わなければ、御言葉に耳を傾けなければ、私たちは真のイエスに従っていません。預言の役割は、私たちに福音を思い出させることです。預言は私たちにキリスト教の核心を再認識させます。それは常に悔い改めへの呼びかけであり、初めの愛に戻ること、契約に対する忠実に戻ることです。これらの預言はそれ以外のことは付け加えていません。ただこう言っているのです。「今こそ重大局面であり、私たちは今こそイエスに注意を払う必要がある、すべてはそれにかかっているのだから。」

1980年のマイク・スキャンラン神父の預言の続きを見てみましょう。

「彼らは、私への恐れや私の言葉に不忠実であることへの恐れから物事を決定する以上に、他人からどう思われるかという恐れ、つまり世で失敗し拒絶されることへの恐れ、隣人や目上の人や周囲の人の尊敬を失うことへの恐れから、物事を決定している。それゆえ、あなたがたの立場は極めて弱い。あなたがたの力はとても限られている。今の時点では、あなたがたを今起こっている戦いや争いの中心にいる者たちと考えることはできない。」

兄弟姉妹の皆さん、厳しいようですが、戦争が起きていることをあなたが知らなければ、霊的な武具をあなたが身に着けていなければ、おそらくあなたは敵に捕らえられ、すでに敵側の欺瞞と嘘と偽りと反逆の作戦の手先になっています。しかもそのことを自覚していません。今こそ目を覚まし、神の御言葉に従って自分の生き方を本当に吟味し、もし闇の王国にいつのまにか陥っていたのならそこから解放され、神の愛する御子の王国に戻る時です。それは、「悔い改め」と呼ばれています。

そして、預言はこう続きます。

「だから今、この時があなたがた全員の上に来ている。これは裁きと清めの時である。罪は罪と呼ばれるようになる。サタンは仮面を剥がされる。忠実は本来あるべき姿として掲げられる。 私の忠実な僕たちが姿を現し、集まって来る。彼らの数は多くはない。それは困難だが必要な時となる。」

ここで数の話をさせてください。神はいつも、御自分の呼びかけに目覚めた少数の人々を通して働かれます。ギデオンを覚えていますか? 主は、「ギデオン、あなたに敵を打ち負かしてほしい」と言われました。するとギデオンは応えます。「私の一族はイスラエルで最も貧弱な者で、私も家族の中で一番年下です。」すると主は言われます。「私があなたにこれをするように呼んでいるのだ」(士師6・14-16参照)。ギデオンが軍隊を集めると、主は言われます。「多すぎる。これでは自分がやったとあなたは思うだろう。だから、人々を帰らせなさい。栄光が私に帰されるように、あなたは私がこれから行うことを見ていなさい」(士師7・2-8参照)。

時々、エリヤのような人がこう言います。「あなたの命令に従おうとしています。イスラエルを呼び戻すのは大変です。私一人だけが残されました。」すると主は言われます。「実は今、あなたと同じように偶像を拝まず、バアルにひざまずいていない人が7,000人いる」(列王上19・14-18参照)。

ですから、私たちは時々、自分たちが一握りしかいないように感じますが、実際にはそうではありません。全体で見ると少数かもしれませんが、主が用いて働いてくださるには十分すぎるほどの数なのです。だから、数のことは気にしないでください。主に同調しているかどうかを心にかけなさい。霊的な武具を身につけることについて気を配りなさい。

「それは困難だが必要な時となる。世界中で崩壊が、困難があるだろう。しかし、もっと問題なのは、私の民の間で清めと迫害が起こることだ。」

そして、次に重要な部分があります。「あなたがたは、どの言葉に従うか、誰を尊敬するかを選ばなければならなくなる。」

預言者エリヤはある時、イスラエルの民に言いました。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。主とバアルのどちらに従うかを決める時が来たのだ」(列王上18・21参照)。

主は私たちに同じ問いを投げかけておられます。「あなたは誰に従うつもりか? 誰を信じるのか? 誰を敬うのか?」 あなたが従い、信じ、敬うのは、神の真の御言葉をカトリック教会と『カトリック教会のカテキズム』が私たちに教えている通りに伝えている人たちでしょうか? あなたは、教会が教えていることから選り好みするつもりですか? イエスが聖書で言っておられることの中から選別し、好きな部分だけ拾いますか? それは、反逆です。不貞行為です。自分自身の宗教を作ることです。それは、自分自身にかたどって神を造ることです。

ある日、私はイエスが言われる厳しい事柄について話していました。兄弟姉妹の皆さん、私も皆さんと同じように厳しい挑戦を突きつけられています。私はこのような恐ろしいことが起こって欲しくありませんが、もし私たちを清め、私たちが本来いるはずの場所に私たちを導き、より多くの魂が救われるようにするためにそのようなことが起こる必要があるのなら、私は覚悟して受け入れます。ある日、私はイエスが人類は二つに分けられると話されたことのいくつかについて話していました。それは、救われる者と失われる者、穀物ともみ殻、天国と地獄などについてでした。その話の後、一人の女性が私のところにやって来て、こう言いました。「私のイエスならそんなことは決して言いません。」

それを聞くのは本当に辛かった。彼女は自分自身にかたどってイエスを造っていたからです。彼女は偶像を造っていたのです。私たちの誰一人、偶像を造リませんように。私たち全員が唯一の真の神、唯一の真のイエスの前にひれ伏し、その教えの中で私たちが自分の都合に合わせて選り好みしてきたことを悔い改め、イエスの教えをすべて受け入れますように。私たちが理解できないことについては、神に理解力を与えてくださるように願いましょう。そのように生きることができないと思ったら、それを生きる力を与えてくださるように神に頼みましょう。

「あなたがたは、どの言葉に従うか、誰を尊敬するかを選ばなければならなくなる。そして、その選択の中で、祝福と賜物の時までに成し遂げられなかったことが成し遂げられるであろう。私の霊による洗礼と霊的賜物の満ち溢れによって成し遂げられなかったことは、火の洗礼によって成し遂げられる。火はあなたがたの間を動き回り、もみ殻を焼き尽くす。」

これが、福音です。これこそ、洗礼者ヨハネがイエスを紹介するときに言ったことです。「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(マタイ3・11-12)。

神の愛の火、神の裁きの火、神の清めの火。すべては善のためです。神は私たちをご自身に引き寄せようとしておられます。しかし、正直なところ、それは厳しい愛であり、神は私たちの注意を引くために、私たちを救うために、厳しい愛を使わざるを得ないのです。

「賜物と恵みと祝福を不忠実と罪と売春と混ぜ合わせるという姦淫を行うことを私は許さない。私の時は今、あなたがたの間にある。あなたがたに必要なのは、私の前に進み出て、私の言葉に完全に服従(……)することである。(今がそうする時である。)犠牲者が出るだろう。容易ではないが、必要である。」

それは魂の救いのために必要であり、教会の清めのために必要です。私たちが欺瞞と束縛から解放されて神の子として栄光ある自由を手に入れるために必要なのです。神は私たちをとても愛しておられるので、このような言葉を語っておられます。神は私たちをとても愛しておられるので、イエスが聖書の中で言われたこと、教会が『カトリック教会のカテキズム』の中で教えていることを私たちに思い出させようとしておられます。それに応えていきましょう。神に助けを求めましょう。

・・・・

私たちは今年、リニューアル・ミニストリーとして40周年を迎えました。40年間、私たちはこのメッセージ、福音のメッセージを伝えてきました。私たちは現在EWTNで最長寿番組となるカトリックのテレビ番組を35年間放送しています。カトリックのラジオ番組も毎日2本放送しています。宣教活動は40カ国以上で行っています。無数の小冊子、書籍、DVD、CD、MP3、MP4を出版してきました。ここ数ヶ月の間にYouTubeチャンネルを充実させてきましたが、主はそれを大きな方法で用いておられます。フェイスブックでも存在感を示しています。

私たちは、イエスが私たちに語られていることをそのまま映し出す明確な声、忠実な声であろうと努めています。個性豊かな講師陣がただイエスの語っていることを伝えるのではなく、イエスの言葉に伴う聖霊の油注ぎも伝えようとしています。この聖霊の油注ぎをイエスはすべての人々に差し出しておられると私たちは信じているからです。

経済的動揺や封鎖など、いろいろあったこの時期、私たちの支援者の中には、これまでのように私たちを支援できないでいる人もいます。皆さんの多くが不安定な経済状態に直面していることを私は知っています。多くの皆さんが小教区で非常に価値のあるミニストリーを支援していることを私は知っていますし、皆さんが行っていることから何かを奪おうなどとは思っていません。しかし、もし私たちに譲ってくださる余分なパンくずを持っているのであれば、もし今この時に主があなたを何らかの形で豊かに祝福しておられるのであれば、主が私たちを呼び出して行うようにと言われたことを続けることができるようにそれを分かち合ってくださるならば、私は本当にありがたく思います。

支援してくださる方は、www.renewalministries.net/donateにアクセスをお願いします。あなたができることは何であれ、私たちが今していることを続けていくのに役立つでしょうし、より良く、より多くのことをしていくのにも役立つでしょう。

私たちと共にいてくださり、本当にありがとうございます。イエスに従ってくださってありがとうございます。この言葉を他の人々にも伝えてくださることを感謝します。アーメン。


[日本語訳・小熊晴代。聖書の言葉はすべて新共同訳より引用。]

原文リンク: https://www.renewalministries.net/another-prophecy-from-fr-michael-scanlan/


「私の言葉を聞け」 マイケル・スキャンラン神父を通して1980年に与えられた預言

リニューアル・ミニストリーズ・スタッフ|2020年6月22日

マイケル・スキャンラン神父を通して与えられた以下の預言は、ニュー・カヴァナント誌1980年5月号にケビン&ドロシー・ラナガン夫妻が執筆した記事で共有されました(リンク先の769-772ページを参照)。

主なる神はこう言われる。「私の言葉を聞け。私の祝福と賜物が際立った時は、今や、私の裁きと清めが際立つ時期に取って代わられようとしている。私が祝福と賜物によって成し遂げていないことを、私は裁きと清めによって成し遂げる。

私の民、私の教会にはこの裁きが何としても必要である。彼らは世の霊と姦淫を行い続けている。彼らは罪に感染しているだけでなく、罪を教え、罪を受け入れ、罪を見くびっている。彼らの指導者たちは、これに対処できていない。教会の上から下までいたるところで分裂と混乱がある。サタンは行きたい所に行き、思いどおりに人を選んで感染させている。サタンは、私の民のどこにでも自由に出入りしている。私はこれを許さずにはおかない。

この刷新で特別に祝福された私の民は、私の洗礼の霊の下にいる以上に世の霊の下にいる。彼らは、私への恐れや私の言葉に不忠実であることへの恐れから物事を決定する以上に、他人からどう思われるかという恐れ、つまり世で失敗し拒絶されることへの恐れ、隣人や目上の人や周囲の人の尊敬を失うことへの恐れから、物事を決定している。

それゆえ、あなたがたの立場は極めて弱い。あなたがたの力はとても限られている。今の時点では、あなたがたを今起こっている戦いや争いの中心にいる者たちと考えることはできない。

だから今、この時があなたがた全員の上に来ている。これは裁きと清めの時である。罪は罪と呼ばれるようになる。サタンは仮面を剥がされる。忠実は本来あるべき姿として掲げられる。 私の忠実な僕たちが姿を現し、集まって来る。彼らの数は多くはない。それは困難だが必要な時となる。世界中で崩壊が、困難があるだろう。

しかし、もっと問題なのは、私の民の間で清めと迫害が起こることだ。あなたがたは自分の信じるもののために立ち上らなければならないだろう。この世と私との間で選択しなければならないだろう。あなたがたは、どの言葉に従うか、誰を尊敬するかを選ばなければならなくなる。

そして、その選択の中で、祝福と賜物の時までに成し遂げられなかったことが成し遂げられるであろう。私の霊による洗礼と霊的賜物の満ち溢れによって成し遂げられなかったことは、火の洗礼によって成し遂げられる。火はあなたがたの間を動き回り、もみ殻を焼き尽くす。火はあなたがたの間を個人として、組織として、集団として、世界中で動くであろう。

私は今起こっている状況を許さずにはおかない。賜物と恵みと祝福を不忠実と罪と売春と混ぜ合わせるという姦淫を行うことを私は許さない。私の時は今、あなたがたの間にある。

あなたがたに必要なのは、私の前に進み出て、私の言葉に完全に服従し、私の計画に完全に服従し、この新しい時間において完全に服従することである。あなたがたに必要なのは、自分の物事、過去の物事を捨てることである。あなたがたに必要なのは、この裁きと清めの時に照らして自分自身とあなたがたが責任を持つ人々を見ることである。そのように彼らを見て、彼らが強く立ち、私の忠実な僕として数えられるために、彼らのために何をすれば一番助けとなるかを考えなければならない。

犠牲者が出るだろう。容易ではないが、必要である。私の民は真に私の民でなければならない。私の教会は真に私の教会でなければならない。そして、私の霊は真に清い命を、福音に対する純真で忠実な心をもたらさずにはおかない。」


日本語訳・秋元伸介、小熊晴代

原文リンク: https://www.renewalministries.net/hear-my-word-fr-michael-scanlans-1980-prophecy/

2020年07月28日

マイケル・スキャンラン神父 の驚くべき預言−今日への緊急メッセージ

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ラルフ・マーティン |2020年6月9日

以下は、Renewal Ministries〔リニューアル・ミニストリーズ〕YouTubeチャンネル で私が今日分かち合った話の全文です 。私たちRenewal Ministriesは、この言葉の重要性と妥当性を考慮し、また私たち自身の生活の中でこのメッセージをどのように生きることを神が望んでおられるかをすべての人が思い巡らす必要を感じたため、この言葉を共有するためにあらゆる利用可能な手段を使用しています。

カトリック・カリスマ刷新の最初の大規模な国際会議が1975年にローマで開催され、閉会ミサのために1万人の人々が聖ペトロ大聖堂に集まったとき、来るべき時について非常に強い預言がいくつか発せられました。その時が来れば従来の社会構造はもう存在せず、主がこの時を使って私たちをご自身とのより深い一致へと引き寄せられる、というものでした。

<写真提供・Renewal Ministries>

一年後、マイケル・スキャンラン神父は別の預言をしました。この記事の最後に預言の全文を掲載してあります。私は最近、新著を執筆するためにいろいろ調べていてスキャンラン神父の1976年の預言を発見したのですが、読んでいて息が止まりそうになりました! それは重要であり、ロックダウン(都市封鎖)や教会に行けないことや経済的困難や社会的不安など、私たちが今体験していることに驚くほど共鳴しているからです。44年前に起きていなかったことが今日起きており、少なくとも部分的には実現しています。その中には少し怖いと感じる部分があるかもしれませんが、怖がらないでください。それは途方もない愛と途方もない希望に導いてくれるのですから。

ここには私たちのための知恵があります。ここには私たちにとって非常に妥当な教えがあります。以下、預言の各部分を見ていき、今日の出来事に照らして、その意味を検討していきます。太字は預言の引用です。

「人の子よ、あの都市が破綻するのを見ているか? あなたのすべての都市が破綻するのを見る覚悟があなたにはあるか? あなたが今頼りにしている経済システム全体が破綻し、金銭がすべて無価値になり、あなたを支えることができなくなるのを見る覚悟はあるか?」

コロナウイルスが本格的に流行し、株式市場が暴落し、米国や世界中で何千万人もの人々が職を失い、減給されたり解雇されたりした時、それはまさに正念場でした。私たちは何を頼りにしているのか、私たちの信頼はどこにあるのかが、問われたのです。

私はYouTubeチャンネルでいくつかビデオを作り、経済について私たちが抱いている不安 、健康について抱いている不安と恐れ について話し、主の約束に私たちの心を再び集中させようと呼びかけました。イエスは、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6・21)と言われます。私は聖フランシスコ・サレジオからも実践的な知恵をいくつか紹介しました。私たちの心がどこにあるかを見る方法、お金に関する不安や恐れにどう対処するか、また、まず神の国を求めるなら私たちに与えられるイエスのとてつもなく素晴らしい約束についてもお伝えしました。

「人の子よ、あなたの都市の大通りや町や施設の中に犯罪や無法を見ているか?」 

ちょうど昨夜のニュースで、私は米国のある町で起こった暴動を見ていました。ここに鍵があります。世界は揺さぶられようとしています。教会は揺さぶられます。揺さぶられるものは何でも揺さぶられる、と『ヘブライ人への手紙』には書かれています 。しかし、預言はこう続きます。

「私が自らあなたに与えようとする法と秩序と保護だけを見る覚悟はあるか?」

主は、私たちが完全な確信をもってご自分のもとに来ることを望んでおられます。まず神の国と神の聖性を求めるなら他のものはすべて加えて与えられるという完全な信頼をもって神のもとに行くのです。この世で生命を維持するために必要な食べ物、飲み物、住居、衣類だけでなく、混乱の中で、法と秩序が崩壊する中で、私たちに必要な保護も主は与えてくださいます。

「人の子よ、あなたが愛し、今祝っている国を、あなたが懐かしく振り返る一国の歴史を、あなたは見ているか?」

スキャンラン神父がこの預言を受けたのは、アメリカ合衆国建国二百周年の時でした。

「私があなたに私の体として与える国々だけを自分の祖国として見る覚悟はあるか?」

私たちの多くは、この国で起こっていることを憂慮しています。米国だけでなく、カナダや西ヨーロッパを含む世界中の多くの国でも同じです。ユダヤ・キリスト教の価値観を踏みにじろうとする攻撃的な世俗主義があり、キリストと教会を敵視し、私たちを罰し、私たちを逮捕し、私たちが社会的エリートに不快なことを言おうものならソーシャルメディアから追い出し、世界を支配して神の言葉を語ってほしくない場所では検閲しようとします。しかし、折が良くても悪くても私たちは神の言葉を宣べ伝える必要があります 。私たちには主の勇気が必要です。主の堅忍が必要です。私たちにはその勇気と堅忍を与えてくださる聖霊が必要であり、まさに今、聖霊との正しい交わりにとどまる必要があるのです。

これらのことはすべて聖書に書かれています! イエスは、この地上に私たちの住まいはなく、この地上に永続する都はないと言われます。使徒たちもそう言っています。「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18・36)とイエスは言われます。私たちの都は、すでにキリストの体の内に形成されつつある新しいエルサレムであり、それは終わりの日に天から下って来るのです。私たちが第一とする忠誠の絆、第一の家族は、キリストに結ばれた兄弟たちであることを知る必要があります。これは本当に重要です。

「私の体の中にある命、そこにだけある命を、私があなたにもたらすようにさせてくれるか?」

私たちはご聖体の中にあるキリストの体に目を向けている必要がありますが、互いと自分自身の中にあるキリストの体にも目を向けている必要があります。私はアナーバー市の「王であるキリスト・カトリック教会」に所属していますが、オンラインでミサに与っている間、主任司祭は、第二バチカン公会議ではキリストがご自分の民に現存される4つの方法について語られていると何度も説明してくれました。その4つとは、
1. 非常に特別な方法でご聖体の内に。
2. 司祭の人格の内に。
3. 神の言葉の内に。
4. キリストの体である私たちの体の内に。

『コリントの信徒への手紙一』6章には、私たちはイエスと共に一つの体、一つの霊であると書かれています。私たちは互いが同じ体の部分なのです。パウロがダマスコに向かう途中で回心したとき、天から彼に話しかけられた声は、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言いました。サウルはキリスト者たちを迫害していました。サウルはキリストの体を迫害していたのです。イエスは、ご自身を私たちと同一視されます。イエスは、私たちの内に宿っておられる父と子と聖霊と一つです。私たちはこのことを宝として心に納め、大切にしなければなりません。もしある時、再びご聖体から切り離され、再び教会、物理的な教会から切り離されたとしても、私たちは覚えておく必要があります。イエスは私たちと共におられます。イエスは非常に強力な方法で御言葉の内におられ、互いの内におられ、そして私たちの魂を住まいとされる三位一体の内におられるのです。

「人の子よ、今は気軽に行けるあれらの教会が見えるか? 扉にかんぬきが渡され、釘が打ち付けられて閉鎖された教会を見る準備ができているか? 自分の人生をどんな特定の構造物にも頼らず、私だけに頼る準備ができているか?」 

私たちは自分の教会を愛しています。教会の建物を愛しています。何世代にもわたって家族が特定の教会に通っている人もいます。しかし、先進国の至る所で教会は閉鎖されつつあります。神に感謝、まだ閉鎖されていない教会と学校はありますが、多くの人にはカトリック学校に通う余裕がありません。カトリックの学校数は今でも以前よりはるかに少ないですが、さらに少なくなる時代に私たちは備えなければなりません。教会の建物も、今でさえ以前よりはるかに少ないですが、さらに少なくなる時代に備えておく必要があります。もうすぐやって来るその時に備えていなければなりません。それが災害によって来るにしてもそうでないとしても、世界で起こっていること、教会で起こっていることによって、確実に来るのです。それは来ています。私たちは、建物に依存せず、毎日私たちと共におられる主ご自身を私たちの生活の中心に改めて置く必要があります。教会の建物がまだそこにあることを感謝しましょう。私たちがそこでまだミサに与ることができる、このとても特別な祝福を感謝しましょう。しかし、キリストの体がご聖体だけに限定されていないことを私たちは忘れてはなりません。キリストの体は、主に結ばれた私たちの兄弟姉妹でもあるのです。

「私だけを頼りにし、あなたが一生懸命働いて育んできた学校や小教区などあらゆる施設に頼らない準備があなたにはできているか? 人の子よ、その準備ができている者であるようにと私はあなたを呼んでいる。」

私たちはその準備をする機会を与えられています。最近の教会の閉鎖や経済の混乱は短期間ではありましたが、小さな警告が与えられていたのかもしれません。いわゆる威嚇射撃のような小さな警告です。世界の構造は安定していません。

「それこそ、私があなたに伝えていることである。世の仕組みは崩壊し、変化している。今、あなたが詳細を知る必要はない。しかし、今までのようにそれらに頼ってはならない。あなたがたは皆、お互いにもっと深く献身してほしい。」

私たちは、近所のキリスト者同士で会う必要があります。職場でも、仲間のキリスト者に会う必要があります。キリストに結ばれた兄弟姉妹として私たちは共につながり始める必要があります。私たちは、カトリック教会が最初に持っていたような小さな家庭教会を持っている必要があります。カトリック教会が最初の300年間持っていたのは、そのような教会でした。家庭で兄弟姉妹が小さなグループとして集まっていたのです。迫害が終わるまではそれが教会の姿でした。私たちは再びこのような家庭教会を建て始めなければなりません。近所の人々との関係を築くことを始めなければなりません。イエスに結ばれた兄弟姉妹が誰なのかを知り、それ以外の方法では集まれない時に備えなければなりません。

「あなたがたには、互いに信頼し合い、私の霊に基づく相互依存関係を築いてほしい。この相互依存は贅沢品ではない。異教の世界の構造ではなく、私の上に自分の人生を築く人々にとって、それは絶対必需品である。」

私たちの文化の中でキリストを閉鎖しようとし、教会を敵視し、キリスト者を敵視し、神の言葉を敵視する世俗化の来るべき猛攻を生き延びようとしているのであれば、これは選択肢の一つではありません。キリストに結ばれた兄弟姉妹とつながっていることは、贅沢ではありません。イエスがここで言われているように、それは必須なのです。

「私は語った。そしてそれは起こる。私の言葉は私の民に伝えられる。彼らは聞くかもしれないし、聞かないかもしれない。私は各自の応答に従って応える。しかし、これが私の言葉である。」

聖書でもイエスは言っておられます、天地が消え失せるまでご自身の言葉から一点一画も消え去ることはない、と(マタイ5・18参照) 。

「人の子よ、自分の周りを見なさい。すべてが閉ざされるのを見るとき、当たり前だと思っていたものがすべて取り除かれるのを見るとき、そしてこれらのものなしで生きる準備ができているとき、そのとき、あなたはわたしが何を準備しているのかを知ることになるだろう。」

私たちは、すべてが閉鎖されるのを見たばかりです。まるで主が、「あながたがたにしるしが与えられるであろう」と言っておられたかのようです。そのしるしは44年間も起こりませんでしたが、今起こったのです。

あなたが準備できているなら、自分の生活でイエスを第一に置き、キリストに結ばれた兄弟姉妹を求め、互いに真の交わりを始めることで警告に応えているなら、警告はこう言います。「そのとき、あなたはわたしが何を準備しているのかを知ることになるだろう。」

ここで語られていることはすべて、神の愛によるものです。魂を目覚めさせるためには何が必要でしょうか? 私たちの自己満足や生温さ、神の物事への無関心、世俗性から私たちを揺り動かし、イエスに私たちの人生を再び集中させるためには何が必要となるでしょうか?

私たちが互いに交わりを保ち、敵対する環境の中でイエスの証人となるためには何が必要でしょうか? どうすればいいのでしょうか?

主は、できるだけ多くの人を目覚めさせるために必要なことをしてくださいます。ある者は注意を払い、ある者は耳を傾け、ある者は目を覚まし、ある者は準備を整えるでしょう。そして、そうしない者もいるでしょう。私たちが神の言葉に応えるか応えないかによって、結果は大きく異なるでしょう。こう言っているのはこの預言だけではなく、聖書も同じです。この預言は、聖書の中で常に語られている警告を現在にもたらしているにすぎません。イエスは、主人が帰って来る時に眠っていてはいけない、と言われます(マルコ13・35-36)。「主よ、主よ」と言う者が皆、神の国に入れるわけではなく、神の御心を行う者だけが入るのです(マタイ7・21)。

扉は、ある時に閉まってしまいます。恵みと憐れみの扉は主が再び来られる時に閉まり、恵みと憐れみに応えた者たちは御父の国に迎え入れられます。預言の警告に注意を払わなかった者、預言のしるしに注意を払わなかった者は、外に取り残されます。そこで彼らは嘆き、泣きわめき、歯ぎしりするでしょう。扉は閉まるのです。準備をしなさい。

マイケル・スキャンラン神父のこの預言で主は私たちに憐れみを示しておられる、と私は信じています。私たちの時代に成就しつつある預言だと思っています。私たちはこの預言を真剣に受け止めなければなりません。私たちは恐れの中で生きるのではなく、不安の中で生きるのでもなく、神の息子や娘たちの栄光ある自由の中で生きる必要があります。神の息子や娘たちは、御父に愛されていることを知っており、御父が摂理によって守ってくださり、何が起きても必ずそこから益をもたらし私たちを守ってくださると知っています。

ですから、兄弟姉妹の皆さん、私はこの言葉にワクワクしています。それは今日のための言葉、今の私たちのための言葉だと思います。それは、イエスや使徒たちが二千年も前から言っていることと何ら変わりません。目を覚ます時が来ました。お互いに歩み寄る時が来ました。外的なものに頼るのではなく、主ご自身に頼る時が来たのです。

主よ、預言の賜物が今日の教会で生きて働いていることを感謝します。マイケル・スキャンラン神父を与えてくださり、感謝します。私たちがこれらのことを一緒に話し、励まし合い、互いに高め合う機会を与えてくださり、感謝します。

マイケル・スキャンラン神父の1976年の預言

人の子よ、あの都市が破綻するのを見ているか? あなたのすべての都市が破綻するのを見る覚悟があなたにはあるか? あなたが今頼りにしている経済システム全体が破綻し、金銭がすべて無価値になり、あなたを支えることができなくなるのを見る覚悟はあるか?

人の子よ、あなたの都市の大通りや町や施設の中に犯罪や無法を見ているか? 私が自らあなたに与えようとする法と秩序と保護だけを見る覚悟はあるか?

人の子よ、あなたが愛し、今祝っている国を、あなたが懐かしく振り返る一国の歴史を、あなたは見ているか? 私があなたに私の体として与える国々だけを自分の祖国として見る覚悟はあるか? 私の体の中にある命、そこにだけある命を、私があなたにもたらすようにさせてくれるか?

人の子よ、今は気軽に行けるあれらの教会が見えるか? 扉にかんぬきが渡され、釘が打ち付けられて閉鎖された教会を見る準備ができているか? 自分の人生をどんな特定の構造物にも頼らず、私だけに頼る準備ができているか? 私だけを頼りにし、あなたが一生懸命働いて育んできた学校や小教区などあらゆる施設に頼らない準備があなたにはできているか?

人の子よ、その準備ができている者であるようにと私はあなたを呼んでいる。それこそ、私があなたに伝えていることである。世の仕組みは崩壊し、変化している。今、あなたが詳細を知る必要はない。しかし、今までのようにそれらに頼ってはならない。あなたがたは皆、お互いにもっと深く献身してほしい。あなたがたには、互いに信頼し合い、私の霊に基づく相互依存関係を築いてほしい。この相互依存は贅沢品ではない。異教の世界の構造ではなく、私の上に自分の人生を築く人々にとって、それは絶対必要なものである。私は語った。そしてそれは起こる。私の言葉は私の民に伝えられる。彼らは聞くかもしれないし、聞かないかもしれない。私は各自の応答に従って応える。しかし、これが私の言葉である。

人の子よ、自分の周りを見なさい。すべてが閉ざされるのを見るとき、当たり前だと思っていたものがすべて取り除かれるのを見るとき、そしてこれらのものなしで生きる準備ができているとき、そのとき、あなたはわたしが何を準備しているのかを知ることになるだろう。

[訳注](全て著者の許可を得たうえで作成した。)
1 マイケル・スキャンラン神父
Fr. Michael Scanlan, TOR (フランシスコ会律修第三会)、1931-2017。ハーバード大学法科大学院修了。1964年司祭叙階。1975年-2000年、オハイオ州Franciscan University of Steubenvilleの学長、2000年-2011年、同大学総長を務める。大会講師、黙想指導、著作、T V司会などを通して世界中で福音を宣べ伝えた。
2 ラルフ・マーティン
Dr. Ralph MartinはRenewal Ministriesの創立者・会長。教皇庁立聖トマス大学(ローマ)で神学博士号取得。教皇ベネディクト16世より新福音化推進評議会の相談役、新福音化に関するシノドス(世界代表司教会議)の神学専門家に指名される。現在はミシガン州デトロイト大司教区の神学校大学院で新福音化プログラムの主任及び神学教授。妻のアンと共にミシガン州アナーバー市に在住。6人の子供と16人の孫に恵まれる。
[情報源]
https://www.youtube.com/renewalministriesrm
動画 https://www.youtube.com/watch?v=2XnxThW3wq0
英語原文 https://www.renewalministries.net/wordpress/fr-michael-scanlans-amazing-prophecy-an-urgent-message-for-today/
[日本語訳および訳注・小熊晴代]

2020年07月03日

カリス・オンライン聖霊降臨前夜祭 教皇フランシスコのメッセージ

2020年5月30日
https://youtu.be/Mb4KquWptTw

教皇フランシスコのメッセージ

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると(……)。」

 このように、私たちが耳にしたばかりの『使徒言行録』の第二章は始まります。そして、技術の進歩のおかげで、今日も、私たち皆、世界中の様々な地域から集まった信者たちが、聖霊降臨前夜に集まっています。
 物語は続きます。「突然,激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして,炎のような舌が分かれ分かれに現れ,一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ(……)」 (使徒言行録2・2−4)。
 聖霊は弟子たち一人一人の上に、私たち一人一人の上に、来てとどまっておられます。イエスが約束してくださった聖霊は、私たち一人一人を新たにし、回心に導き、癒すために来られます。聖霊は、私たちの恐れを、それは実に多いのですが、どんな恐れも不安もいやすために来られます。聖霊は来て、私たちの傷を、私たちが互いに与える傷を癒してくださいます。そして、私たちを弟子、宣教する弟子、勇気と使徒的大胆さに満ちた証人にするために、聖霊は来られます。
 今日、私たちはこれまで以上に、御父から聖霊を送っていただく必要があります。『使徒言行録』の第一章で、イエスは弟子たちにこう言われます。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4節)。そして、8節でイエスはこう言われます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
 イエスの証し。聖霊は私たちをこの証しに導いてくださいます。今日、世界は苦しんでいます。傷ついています。私たちは傷だらけで苦しむ世界に住んでいます。特に見捨てられた貧しい人たちが苦しんでいます。私たち人間の安全保障がすべて消えてしまった今、世界はイエスを与えてくれる私たちを必要としています。世界は私たちが証しする福音、イエスの福音の証しを必要としています。そして、私たちはその証しを聖霊の力によってのみ与えることができるのです。
 学んだ教訓をもってこの瞬間と未来に私たちが立ち向かうためには、私たちに新しい目を与えて心も頭も開いてくださる聖霊が必要なのです。私たちは、一つの人類です。私たちは自分の力では救われません。自分を救える者は誰もいません。例外はありません。聖パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』でこう言っています。「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3・28)。そうであるのは、私たちが聖霊の力で結ばれており、イエスが約束された聖霊による洗礼を受けたからです。私たちは過去においても現在においてもそれを知っていましたが、私たちが生き抜こうとしているこのパンデミックは、もっと衝撃的な方法でこのことを私たちに体験させてくれました。
 私たちの前にあるのは、新しい現実を築き上げる義務です。主がそれを成し遂げてくださいますが、私たちは協力者となれます。「見よ、わたしは万物を新しくする」と主は言われます(黙示録 21・5)。
 私たちがこのパンデミックから抜け出した時、私たちは今までしてきたことを、今まで通りにはできなくなるでしょう。いや、すべてが違ったものになるでしょう。名目ではなく現実にキリスト者としての行動に導かれるような、より公正で、より平等で、よりキリスト教的な社会を一丸となって築かなければ、このすべての苦しみは無意味なものになってしまいます。世界の貧困というパンデミック、私たちのそれぞれの国の貧困というパンデミック、私たちが住んでいる市町村の貧困というパンデミックを終わらせるために私たちが働かなければ、この時代は無駄に過ぎ去ってしまうでしょう。
 人類の大きな試練から、そしてその中でも今回のパンデミックから、私たちはより良い人間として出て来るか、より悪い人間として出て来るか、二つに一つです。決して今までと同じではないのです。
 皆さんに尋ねます。あなたは、どんな人間として出て来たいですか。より良い人間としてですか、より悪い人間としてですか? だからこそ、今日、私たちは聖霊に心を開くのです。聖霊が私たちの心を変え、私たちがより良い人間として出て来るように助けてくださいます。
 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、(……)旅をしていたときに宿を貸し、(……)牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25・35−36)と裁きの場でイエスに言っていただけるように生きなければ、私たちはより良い人間になることはできないでしょう。
 そして、これはすべての人の課題であり、私たち全員の課題です。同時に、カトリック・カリスマ刷新のあらゆる現実の一致と交わり、コムニオであるCHARISの皆さんの課題でもあります。
 1970年代にスーネンス枢機卿とエルデル・カマラ大司教が著したマリーヌ(メヘレン)文書の第3巻は、『カリスマ刷新と社会活動―対話』という書名です。この文書には、この恵みの潮流に至る道が示されています。聖霊のこの呼びかけに忠実でありなさい!
 第二バチカン公会議の開催を発表した際の教皇ヨハネ23世の預言的言葉は、カリスマ刷新の皆さんも特に大切にしていますが、その言葉が今、私の心にも浮かんできます。「神の霊が、世界の隅々から日々立ち上る祈りに最も慰めに満ちた形で答えてくださいますように。この私たちの時代に、あたかも新しい聖霊降臨のように、あなたの驚くべき業を新たにしてください。そして、聖なる教会がイエスの母マリアと心を一つにした祈りで絶えず結ばれ、ペトロに導かれて、 神の救い主の王国を、真理と正義と愛と平和の王国を広げて行きますように。」
 この聖霊降臨前夜、皆さん全員に聖霊の慰めがありますように。そして、このパンデミックという苦しみと悲しみと試練の時代からより良い者となって抜け出す聖霊の力があなたがたにありますように。

主の祝福と聖母の守りがあなたがたにありますように。

[訳注]
•この日本語訳は、C H A R I S公式サイト掲載のスペイン語原文と英訳を元に作成されました。
*動画(スペイン語、英語字幕付き)
Pope Francis video message to CHARIS during Pentecost 2020
https://youtu.be/_nRtXckzKJE
*スペイン語全文
https://drive.google.com/file/d/1e2WEHufEvWbkadCu8cBgm0IMR87Fpm54/view
*英訳全文
https://docs.google.com/document/d/1TGkTPooFQN5CJTsbPeZdzmbSrz1GWsnvJVS5IjBlW3k/edit
•聖書の言葉は全て日本聖書協会刊『新共同訳聖書』から引用しています。
[日本語訳および訳注・小熊晴代]

2020年06月11日

聖霊降臨2020に向けて CHARISのメッセージ

ラニエロ・カンタラメッサ神父(カプチン・フランシスコ修道会)

『使徒言行録』は、パウロの生涯の一幕をこのように記しています。「群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、『鞭で打て』と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」(使徒16・22~26)

衣服は裂け、体には無数の打ち傷、足に木の足枷をはめられたパウロとシラスですが、神に助けを祈り求めるのではなく、神に向かって賛美の歌を歌います。今まさにこの時、カトリック・カリスマ刷新の私たちに送られているメッセージです! パウロとシラスに倣い、私たちも、少なくとも今から聖霊降臨の主日までは、コロナウイルスについての話を脇に置くように、せめてコロナウイルスをあらゆる物事の中心にしないように、招かれています。聖霊がウイルスよりも重要ではなく力もない、と思い込んで聖霊を悲しませてはなりません。

さらに、パウロとシラスの例は、神に賛美の歌を歌うように私たちを招いています。これは、この惨禍を特に身をもって体験している人にとって、不条理で受け入れ難いと思えるかもしれませんが、それが可能であると私たちは信仰によって少なくとも理解することができます。聖パウロは、「神を愛する者たち(……)には、万事が益となるように共に働く」(ローマ8・28)と宣言しています。「万事」ですから、何一つ除外されません。したがって、現在のパンデミックも例外ではありません! 聖アウグスティヌスは、その深淵な理由を次のように説明しています。「至高の善である神は、その全能と善によって悪から善を生み出すことがおできにならなければ、御自分の作品の中に悪をお許しにならなかったでしょう」(『信仰・希望・愛−エンキリディオン』、11.3)。

私たちは、悪が人類全体を屈服させているから神をほめたたえるのではありません。神が私たちと全世界のためにこの悪からも善を引き出す術を知っておられると確信しているからこそ、神をほめたたえるのです。私たちが神をほめたたえるのは、神を愛する者たちには、そして何よりも神に愛されている者たちには、万事が益となるように共に働くと確信しているからに他なりません。私自身がそうできるかどうか分からないので震えながらこう言いますが、神の恵みにはこれができ、さらにこれ以上のこともできるのです。聖金曜日に聖ペトロ大聖堂で行った説教の中で、私は神がこの悪からすでに引き出しておられる「益」をいくつか特定しようとしました。技術や科学を利用しながら自分で自分を救うことができるという幻想からの覚醒。この悪によって引き起こされている連帯感。この連帯感から英雄的行為にまで駆り立てられる人々も出ています。今なら私は、宗教心の覚醒と祈りの必要性を付け加えるでしょう。そのしるしとして、教皇フランシスコの一挙一動、一言一句がカトリック信者以外の人々からも並々ならぬ注目を集めています。

使徒パウロは、テサロニケの信徒たちに、「どんなことにも感謝しなさい」(一テサロニケ5・18)と勧めました。賛美と感謝は、ミサにおいては栄唱〔ドクソロギア〕と感謝の祭儀〔エウカリスチア〕として表現されますが、神に対する人間の第一の務めです。パウロによれば、人類の根本的な罪はこの二つの姿勢を拒否することであり、ここから他のあらゆる罪が派生します。「従って、彼ら〔人間〕には弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめる〔ドクサザン〕ことも感謝する〔エウカリステサン〕こともせず、(……)」(ローマ1・20~21)。

つまり、罪の真逆は、徳ではなく、賛美なのです! 現在の劇的な状況下で神にささげる賛美は、最高度に押し上げられた信仰です。イエスが嵐を鎮められたとき使徒たちをお叱りになったのは、もっと早く御自分を起こさなかったからではなく、十分な信仰を持っていなかったからでした。

今この時は、カトリック・カリスマ刷新の私たちが恵みの潮流の最も純粋な源泉に立ち帰る機会です。その源流が地表に湧き出たとき、キリスト教世界の他の人々の目に私たちは賛美の民、アレルヤの民と映ったのです。

私たちだけではありませんでした。ペンテコステ派の兄弟の間でも同じ体験が起きていました。カトリック・カリスマ刷新内でデイヴィッド・ウィルカーソン著『十字架と飛び出しナイフ』に次いで広く読まれた本の一つは、マーリン・キャロザース著『獄中からの贊美』でした。著者は単に賛美の重要性を勧めるだけではなく、聖書の言葉と実体験をもって賛美の奇跡的な力を示しました。

聖霊の最大の奇跡は、私たちの嘆願に応えて起こるのではなく、賛美に応えて起こります。燃え盛る炉に投げ込まれた3人のユダヤ人の若者も、「炉の中で声を合わせて賛歌をうたい、神に栄光を帰し、賛美して言った。『我らの先祖の神、主よ、あなたは賛美され、代々にほめたたえられ、あがめられますように。』」(ダニエル補遺アザルヤ28~29)。この祈りは今でも主日と祝日に聖務日課の朝の祈りで歌う「賛美の賛歌」に引き継がれています。賛美の最大の奇跡は、賛美を実践する人々に、特に試練の時に賛美する人々に、起こります。そのような賛美によって、恵みは自然よりも強いことが示されるからです。

獄中のパウロとシラスの奇跡、そして燃え盛る炉に投げ込まれた3人の若者の奇跡は、無数の状況下と方法で繰り返されます。病気から、薬物依存から、不当な有罪判決から、自分自身の過去の重荷から、解放されるのです。「試しに信じてみなさい」が著者キャロザースから読者に贈られたメッセージでした。

ですから、ウイルスを賛美の海に沈めてしまいましょう。少なくとも試しにそうしてみようではありませんか。このパンデミックには神の栄光をたたえて立ち向かうのです。全教会と一つに結ばれ、ミサの『栄光の賛歌』、「われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」と共に宣言しようではありませんか。この祈りに嘆願はありません、賛美のみです!

聖霊降臨を待ちわびながら、『Alabaré a mi Señor〔主に賛美〕』、『Come and Worship Royal Priesthood〔栄えの君イエズス〕』などなど、カリスマ刷新という恵みの潮流に初めて出会った頃に私たちの多くが涙を流した多くの歌を、当時と同じ熱意を込めて歌おうではありませんか。

今この時に特にふさわしいと私が思っている歌があります。ドン・モーエンが作詞作曲した『God Will Make a Way〔主は道をつくられる〕』です。リフレインの歌詞は、こうです。

Oh, God will make a way 神は道を作られる
Where there seems to be no way 道がないように思えるところにも
He works in ways we cannot see 私たちが分からない道筋で働かれる
He will make a way for me.  主は私のために道を作ってくださる

私のためだけではなく、全人類のために、神は道を作ってくださいます!

[訳注]
• この日本語訳は、C H A R I S公式サイト掲載のイタリア語原文と英訳を元に作成されました。
イタリア語 
https://docs.google.com/document/d/1KQBNRHZDuzB5s3orUCt4yjLGrUj7VkgxwYTAkWcJ3_8/edit
英訳 
https://drive.google.com/file/d/13XPvA_KgE-EKZTCF4bxdh2haZ0yFYlHY/view 
• 聖書の言葉は全て日本聖書協会刊『新共同訳聖書』から引用しています。
• 『God Will Make a Way』の英語歌詞各行に続く日本語は原詩からの直訳です。邦題『主は道をつくられる』の日本語歌詞は別に存在します。
https://www.youtube.com/watch?v=bMtJlMhKzhI
[日本語訳および訳注・小熊晴代]

2020年05月23日

CHARIS MAGAZINE 第3号の記事

希望は欺くことはない
ラニエロ・カンタラメッサ神父、カリス補佐司祭

3月11日水曜日にビデオを通じて配信された一般謁見の中で、教皇様はコロナウイルス危機に言及し、全世界の信徒に向けて、この事態に「力強さと責任と希望」をもって対処するように励まされました。これら三つの項目のそれぞれの意義を考えてみましょう。

《力強さ》 あたかも今日の私たちに向けられているかのように、特別な試練に際して、神が御民に発せられることばに耳を傾けましょう。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と主は言われる」(ゼカリア書4・6)。これは、あらゆる人間的な資源を利用し、予防策を実行に移すことから私たちを遠ざけるものではなく、むしろ、私たちの苦闘にあって私たちが孤立していないことを確信させます。神は、私たちが試練のうちにあるときほどに、エンマヌエル、すなわち「わたしたちと共におられる神」であることはありません。そのような瞬間においてこそ、嵐の中での使徒たちのように、イエスに向かって、「主よ、わたしたちが溺れてしまっても、かまわないのですか」と叫びを上げましょう。主は御自分の介入が同時に、御自分の恵みと私たちの信仰との結実となるように、私たちの叫びを待ち受けておられるのです。

《責任》 自分自身のことだけ考え、場合によっては他者を犠牲にしてまで身を守ることを考えないようにしましょう。私たちの行動あるいはおこたりの一つがもたらすかもしれない結果を考えましょう。このような状況は、私たちが一つの家族であり、「互いに体の一部」であることを想起させる独特な機会を私たちに提供しています。真の船長は、自分の責任のもとにあるすべての人々が救助されるまで船を放棄しません。これはまた、多くの医師や介護者たちがきわめて素晴らしい仕方で示してきた滅私の態度です。そしてこれは、他の何にもまして、「私たちすべてのためにご自身を死に至るまで明け渡された」私たちの救い主によって例証された姿です。

《希望》 私たちが刷新の民として兄弟姉妹に提示できる最もうるわしい貢献は、まさにこれです。対神徳としての希望を生き生きと保つことです。そしてこの希望は「わたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5・5)。カリスの代表と国際コムニオ奉仕会全員の名において、その補佐司祭である私は、使徒パウロがローマの信徒に向けて述べた願いを、カトリック・カリスマ刷新のすべての兄弟姉妹に向けて述べさせていただきます。
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださいますように」(ローマ15・13)。

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新 全国コムニオ奉仕会

2020年03月29日

『聖霊による生活セミナー』について(サヴィオ・マスカレナス)

サヴィオ・マスカレナス著、「カリス・インディア」誌、2016年9月号から

 聖霊による生活セミナー(ライフ・イン・ザ・スピリット・セミナー、LSSと略す)は、聖霊による生活へと人びとを導くための、20世紀における重要な手段の一つとなってきました。またこれは、人びとをイエスに対する個人的な献身へともたらす、カトリック・カリスマ刷新における基本的な手立てとなってきました。
 「セミナー」という語の語源は、ラテン語の seminarium に由来し、それ自体、「種子の」を意味するラテン語 seminarius に由来し、「土地を耕す」もしくは「苗床を設ける」を意味しています。それゆえLSSは、種を蒔くために相応しいときとなるべきものであり、その種子とは、新しい参加者たちのあいだに蒔かれる福音の種であり、既存のメンバーのあいだでの福音化の種であります。
 このセミナーは、1971年に合衆国アン・アーバーの「神のことば契約共同体」によって開発され、世界中で広く用いられてきました。「このセミナーは、参加者たちがカリスマ的霊性の基本的な真理を十分に理解し、キリストへの意識的な献身を達成するのを助けてくれます」(カルメル修道会ドミニク・フェルナンデス神父『キリストの約束に基づいて立つ』)。ある人びとが示唆してきたように、LSSは、最初の4世紀のキリスト教の洗礼志願者養成コースや、ルネッサンス期からのロヨラの聖イグナチオの『霊操』と並んで、全教会に顕著な歴史的なインパクトを与えてきました。
 聖霊生活セミナーは、教会の刷新の脈略の中で、カトリック者のグループによって一般的に用いられています。このセミナーは、人びとを聖霊の働きのより深い体験と気づきへともたらすための、有効な道具であります。このセミナーは、福音の基礎的な提示と、ご自分に身を委ねる人びとの生活の中で働く主の御業についての根本的な教えを提供します。
 バート・ゲッツィ師は、『主と共に建てよ』の中で、このように述べています。「LSSは、初代キリスト教の洗礼志願者の生活に似ている。洗礼志願者の生活のように、その教育課程は聖霊における新しい生活へと人びとを導くものであり、それはさらに、キリスト教的成熟へ導くものである。両者はキリスト教入信の過程であり、それは同じような本質的要素を併せ持っている。すなわち、良きおとずれを宣べ伝えること、基礎的教え、霊における新生活をわがものとすること、およびキリスト教徒の共同体の中に組み込まれるといったことを含んでいる。」(邦訳、ヴェリタス出版社・1978年、114~115頁)
 このセミナーは、参加者が、イエス・キリストがあなたとの関係を確立し、再建し、あるいは深めようとなさる諸段階を歩み進めるのを助けます。入信の秘跡の恵みを体験したカトリック信者にとっては、イエスは、ご自身との新たな、より十全なかかわりを提供してくださるのです。聖霊の賜物は、私たちの生活全般を満たし、私たちを変容させるので、その結果として、私たちは神の愛とその救いの御業を知り、かつ体験し始めます。
 LSSでは、通常では1週間に1度、7週間にわたって、もしくは一定期間の週末にわたって行われる、1時間半ほどのセッションから成り立っています。

[第一講話・神の愛]
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。この愛の現われは、私たちの救い主イエス・キリストの生涯と死と復活のうちにあります。イエスは私たちに、この愛のうちに生きることができるように聖霊を送ります。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)のです。

[第二講話・救いのみわざ]
 このセミナーにおいては、参加者は、一つの国(一つの生き方、一つの社会)から他の国へと移動するように促されます。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(コロサイ1・13)。

[第三講話・新しい命]
 神は私たちに、聖霊により、入信の秘跡を通じて、新しい命をお与えになります。これらの秘跡の力を発揮することを学ぶことは、聖霊の恵み深い賜物です。

[第四講話・神の賜物を受けるために]
 主は私たちに、その聖書によって、聖霊の賜物を受けるために私たちの心を十分に開くすべを教えられました。悔い改めと信仰によって、私たちは自分たちの生活の中で聖霊の御業に応答します。

[第五講話・聖霊の満たし(聖霊による洗礼)のために祈る]
 いまや参加者たちは、助けと励ましのうちに、キリストへのまことの献身を行いますが、聖霊による洗礼を求める祈りがこれに続きます。聖霊による洗礼は「人生を一変させる神の愛の体験です。聖霊によって父である神の愛が人の心に注ぎ入れられ、主であるイエス・キリストに自分のすべてを明け渡す決意を通してその愛を受ける、という体験です。」(国際カトリック・カリスマ刷新奉仕会教義委員会による『聖霊による洗礼』邦訳13頁)

[第六講話・聖霊のうちでの成長]
 祈りと学習と奉仕を通じて、ひとは日々、キリスト教共同体のなかにあって聖霊の賜物をたたえます。私たちがキリスト・イエスとの個人的なかかわりを深めるにつれて、聖霊はわたしたちをキリストの体のうちに結合します。

[第七講話・キリストへの変容]
 日々の生活のなかで解き放たれた霊の現存を通じて、ひとは徐々に、主との新しいかかわりによって変容されていきます。霊によって日々鼓舞され、活気づけられて、キリスト者は、現代世界のなかでキリストの体を築き上げるために聖霊の賜物を行使することによって、他者に奉仕するように自分の生活をささげます。

 国際カトリック・カリスマ刷新事務局(ICCRO、現在のICCRS)は、1985年に、セミナーの第8講話として「あなたがたはわが証人となる」を追加して、LSSのリーダー用手引きを発行しましたが、この講話は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15・16)というイエスのことばを参加者たちに思い起こさせるものです。
 LSSの目標は、参加者たちが、真実のキリスト者としての生活の基礎を築き、あるいは強化することによって、キリスト者としての新しい、より十全な生活を見出すのを助けるように設定されています。LSSの目標は、次のとおりです。
(一)参加者がキリストとの個人的な関係を確立し、再建し、あるいは深めるのを助ける。
(二)参加者たちがその生活の中で聖霊の働きに道を譲るのを助ける。
(三)参加者たちがキリスト者としての生活のなかで分かち合ったり支援を受けたりできるようなキリスト者の共同体やグループの一員となることによって、より十分にキリストに結びつけられるのを助ける。
(四)参加者たちが、キリストとのかかわりにおける成長の有効な手段を活用するのを助ける。
(五)参加者たちがキリストに従って、「人間をとる漁師」(マタイ4・19)になることによって、良きおとずれを宣べ伝えるのを助ける。
 祈りのグループを築くにあたってのLSSの重要性を挙げると、
① LSSは、福音化および再福音化の道具であります。それは、信仰者たちがイエスとの個人的なかかわりを深めることができるとともに、良きおとずてを無信仰者と分かち合うすぐれた機会を提供します。
② LSSは、福音化もしくは再福音化が命と献身をもたらすので、祈りのグループが燃え続けるのを助けます。
③ LSSは、参加者たちが彼らの生活の中での聖霊の働きに道を譲ることを助け、その結果として、祈りのグループ全体が聖霊で満たされることになります。
④ 病んでいる祈りのグループにとって一番の改善法は、徹底的なダイエット(規定食)を実行することです。LSSはその答えです。
⑤ ある人が言ったように、「私たちは水族館の管理者ではなく、人間をとる漁師であるべきです」。祈りのグループのメンバーは全員、他の四・五名のひとと良き知らせを分かち合い、その人たちをLSSに招くという目標を与えることによって「漁師」とされるべきです。パンフレットや旗じるしなどを配ることにメンバーたちをかかわらせるのもよいでしょう。
⑥ LSSが計画されるときには、執り成しのグループは、祈りのグループのメンバーを執り成しや断食にかかわらせることによって、セミナーのための執り成しを直接に始めなければなりません。全員が、LSSの成功のために毎日少なくとも一連のロザリオを唱えるように求められるべきでしょう。
⑦ セミナーを行うためには、しっかりしたLSSチームを作ること。小さな祈りのグループであれば、他の祈りのグループから援助してくれる人を連れてくることもできます。
⑧ 生き生きとした賛美と礼拝のための聖歌の実践には、音楽の奉仕活動が必要とされ、また、他の人びとが挨拶のミニストリー、奉仕のミニストリー、書籍販売のミニストリーなどに携わらねばなりません。
⑨ 新しく聖霊の満たしを受けた人びとのためには、具体化されたフォローアップ企画がなければなりません。祈りや親睦を支援する手だてがなければ、ある人びとは元の生活に立ち戻ったり、他の人びとは道からそれたり、何らかのセクトなどによって打ち負かされることもあります。
⑩ LSSのあとには、霊による成長セミナー(GSS)や、霊による成熟セミナー(WSS)が行われることも可能です。それらのセミナーの各々は、順番に、先行するものの上に成り立ち、同じような形式で進められます。
すべてのものが、聖霊の力によって営まれる生活の恵みによる私たちの成長にかかわっています。
※筆者は、1977年以来インドのCCRにかかわり、ゴアの奉仕チームの議長も務めたあと、現在は全国奉仕チームの副議長として活躍。『カリスインディア』誌に「霊に満たされて築く」シリーズを、すでに16回にわたって執筆し続けています。

「生ける水」2016年秋季号No.122に掲載された記事

2020年02月23日

『教皇フランシスコ キリストとともに燃えて-偉大なる改革者の人と思想-』の紹介

オースティン・アイヴァリー著、宮崎修二訳、2016年2月、明石書店発行

(第7章「ガウチョ枢機卿」の438ページから441ページまでの文章を抜粋)

 いわゆる「カリスマ刷新」は1960年代後半にカトリック教会においてカトリック信徒が聖霊による祈りを行ったことに始まり、その後、教会は聖霊において新しい洗礼へと呼び出されているという確信を持つようになった人々の運動である。公式にはカリスマ刷新のカトリック信徒の数は1億2000万人、世界のカトリック人口の20から25%とされている。
 カリスマ刷新運動ではペンテコステ派と似た霊的なスタイルの礼拝を行い、それに秘跡をともなう正統的なカトリック信仰とその実践が組み合わされている。イエズス会の管区長であったときのベルゴリオは当時の他の教会指導者と同じようにこの現象に対処する時間がなく、1970年代には「聖霊に憑かれていると主張している」として批判している。彼も後任の管区長アンドレス・スウィンネンもカリスマ刷新運動をアルゼンチンにもちこんだイエズス会士アルベルト・イバーニェス・パティージャとの接触を禁じていた。しかし、2013年、フランシスコ教皇となった後、リオデジャネイロから戻る飛行機の中で説明したように、以前はカリスマ刷新運動については「神聖な典礼をサンバの学校と混同したもの」と考えていたが、後に「よく知るようになってからは、よいことをしていると思い、それに加わった」のである。
 1999年、ブエノスアイレスで年に一度のカリスマ刷新のカトリック信徒のためのミサを始めたとき、回心が起こった。後にベルゴリオの親しい協力者となったカリスマ刷新運動のブエノスアイレスの指導者のひとりは「彼はあのとき、カリスマ刷新に神聖で深遠なものを見たのです」と振り返る。「彼はそのとき、『祭壇に近づいて賛美を聞いたとき、私は心がいっぱいになるように感じた』と言っていました。深い祈りの人である彼はそれが聖霊であるとわかったのです」。聖体とカリスを掲げたとき、15秒間、異言を語ることを許可するかと尋ねられた彼はそれに同意した。
 2000年以来、ベルゴリオはカトリックのカリスマ刷新運動の毎年の養成学校で講話をするようになった。そこで彼は教会の刷新について考えを発展させていった。一般信徒は福音を説くことを責務と自認する必要があり、教会は町に出なければならない、うちに留まっているより、外に出て、傷つき、泥にまみれた方がよいといった考えである。「フランシスコ教皇が今、言っていることはすべて、カリスマ刷新の講話で話されていたこと」とその協力者は言う。
 ブエノスアイレスの福音派牧師ホルヘ・イミティアンとカトリックのカリスマ刷新の指導者マッテオ・カリシの間にイタリアで生まれた友情関係から、ユニークな教会一致の運動が四人の福音派の牧師と四人のカトリックの一般信徒によってアルゼンチンで始まった。「聖霊において刷新された福音主義とカトリック信徒の交流」(CRECES)と名づけられたその運動は、2003年に祈りと賛美を行う集会として始まり、聖霊の新しい発露の講話の中、急速に拡大していった。ベルゴリオ枢機卿は2004年と2005年に、その集会に控えめに、深く関わることなく出席した(「他の人たちと一緒にそこにいるだけにする」と主催者に語っている)。しかし、カトリック信徒と福音主義者の間にマテ茶の魔法瓶とヒョウタンをもって座り、聖霊を求める様子、純度が高い「賛美」の音楽、異言で歌うときの最初の動き、人々が互いについて、聖霊がもつ治療力を信じて祈る様子を観察した。
2006年6月、CRECESがローマ教皇の公式説教師で、カリスマ刷新の修道士であるラニエロ・カンタラメッサをブレノスアイレスで説教をするために招待したとき、ベルゴリオは7000人を収容できるルナ・パーク・スタジアムを手配した。驚いたことに、その日、会場を満員にした聴衆は福音主義者よりカトリック信徒の方が多かった。この規模での教会一致の集会は世界初であった。
 賛美を先導したのは福音派のメキシコ人音楽家マルコス・ウィットであった。そして、カンタラメッサとともに、イミティアンを含む4人のCRECESの牧師がそこにいた。枢機卿はいつものように朝を過ごし、他の人々と一緒に席についた。ある時点で、ウィット牧師が誰でもそばにいる人の手をとって、その人のために祈るよう人々に呼びかけた。ベルゴリオは写真家エンリケ・カンガスに手を取られ、42歳の福音派の男性の猛烈な祈りにとらわれた。枢機卿の頭はその男の肩にもたれ掛かっていた。その男性エドガルド・ブレソベックは後に、その人が誰であるかを知らなかったと言い、後ろの人に言われて、その司祭がブエノスアイレス大司教であったと知ったのだと語った。
 午後、話をするよう招かれると、ベルゴリオはまず説教師たちに自分のために祈ってほしいと頼み、頭を垂れると、説教師たちは彼の頭に手を置いた。牧師の祈りはカリスマ運動のスタイルで、長く、饒舌で、切迫したものであった。アルゼンチンで預言者的な声を育ててくれたことを神に感謝し、枢機卿が知恵と指導力の賜物をもって祝福されるようにと求めた。
「主よ、キリストの兄弟として、相違や障壁なしに、私たちは彼をナザレのイエスの名において祝福し、あなたの僕に及ぼされている悪の力すべてが無効とされるようお願いいたします」
 ノルベルト・サラッコ牧師がそう唱えると、スタジアムに万雷の拍手が起こり、牧師の祈りは最高潮に達して終わった。
「主よ、あなたの聖霊と力で彼を満たしてください。イエスの名において」
 ベルゴリオはマイクをとると、それまでの自分を捨てることなく、ともに共通の道を歩くことができる「和解を経た多様性」の美しさについて語り、続いて、風と抱擁と傷という三つのテーマをめぐる説教をした。しかし、その説教に現れた情熱、切迫感、明瞭さ、力強さは今までに見られない熱をもっていたことは、いつもの彼を知る者には特に驚くべきことであった。さらには広げた腕を振り、よく知られた復興(リヴァイヴァル)運動のスタイルで手を天に向けて突き上げた。
 枢機卿は燃えていた。
「あれが転換点でした」
 イミティアン牧師の娘で、ベルゴリオの伝記を書いたジャーナリストのエバンヘリーナ・イミティアンは言う。
「あれから前よりもかなり自由に感じるようになったんです。重要だったのは枢機卿が聖霊に対して開かれていたことです。あのお歳で新しい経験に身を委ねていたんです」
 その後、ベルゴリオはCRECESの会合にはただ出席するだけではなく、舞台に上がり、その日一日を祈りと賛美で過ごした。12年の間、枢機卿を追いかけたフリーの写真家エンリケ・カンガスは「私が撮った彼の最高の笑顔は、ほとんど唯一の笑顔ですが、CRECESで撮ったものです」と述べている。

注:教皇フランシスコの本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ

『教皇フランシスコ キリストとともに燃えて-偉大なる改革者の人と思想-』(オースティン・アイヴァリー著、宮崎修二訳、2016年2月、明石書店発行)は教皇フランシスコの傑作評伝(値段:2800円+税、総ページ数:627)。

2020年02月19日

CHARIS MAGAZINE 第2号の記事

福音宣教の課題
メアリー・ヒーリー博士、カリス教義委員会委員長

マルコの福音書は、次の言葉で終わっています。「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」。すべての時代における教会の福音宣教活動がどういうものであるべきかを何と見事に表現していることでしょう! 彼らの福音への信仰に満ちた宣言を通して、主の救う力がそれを最も必要としている人々に示されるようにと、復活された主が「彼らと共に働き」、あるいは「彼らと共に協同的な企てに参加された」のです。

その協同的な企てがどのようなものであるか、それを示す一つの良い例が私の友人ジョンの刑務所ミニストリーでも起こりました。彼は刑務所やリハビリ・センターで定期的にボランティア活動をし、キリストの愛と思いやりを入所者たちに伝えています。ある日、いつものように、祈るために一部の入所者たちを集めていたのですが、このようなことが起こりました。

「リックという入所者が背中の痛みを訴えました。私がそのことのために祈ると痛みが消えました。でもそのとき、聖霊から促しがあり、片足がもう一方の足より短くはないか彼に尋ねてみました。よく分からないけれど、足首の手術を受けたことがある、と彼は言いました。調べるために彼を座らせると、案の定、両足の長さが違っていました。私は部屋の中にいる12人かそこらの男性に、周りに集まるようにと、そして見ていてごらんと言いました。イエスは私たちを失望させませんでした。片足が伸びて他方と同じ長さになったのです。もちろん、彼らは仰天しました。皆、目の前でそれが起こるのを見ていたのですから。私はこの機会をとらえて福音宣教し、神の愛について、さらに、神は肉体的な病をいやしたいと思っておられるだけでなく、リックとご自分との関係もいやしたいと思っておられるし、それは私たち全員にとっても同じだと話しました」。

その日、入所者たちはよいカテケーシス(教理の教え)を受けただけでなく、彼らの人生を根底から変えるイエスの力と慈しみを目に見える形で見せていただいたのです。

半世紀以上にわたって教会は、明快に呼びかけています。それは新しい福音宣教への呼びかけです。それはバチカン第二公会議で始まりました。公会議は、私たちの時代に教会が福音をもっと効果的に公言するよう、その刷新を追求しました。公会議の後、教皇パウロ6世は大胆に宣言しました。「福音宣教は、実際、教会にふさわしい恵みと召命であり、教会の根源的なアイデンティティーです。教会は福音宣教をするために存在しています」。パウロ6世以降の教皇も皆、そのメッセージを繰り返してきました。教皇フランシスコはこう表現しています。「私たちは教会の建物内で涼しい顔でおとなしく待つことなどできません。私たちは、単なる現状維持のための司牧的な働きから、決定的に司牧的な働きに移行する必要があります」。

(この後、新しい福音宣教が世界的にあまりうまく行っていないのは、何が足りないからなのか、という問い掛けがなされ、その答えは聖書にあるとの説明があり、次に続きます。)

イエスは弟子たちに教えておられました。彼らの使命はご自身の使命に基づいていると。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21)。イエスはひいては私たちの模範です。イエスの使命は、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたときに正式に始まりました。それは、御父の計画に対する謙遜で従順な行為でした。その直後、天が開け、聖霊が鳩の形でイエスの上に降って来て、イエスは御父の愛の宣言を聞きました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。福音書は天がその後再度閉まったとは言っていません。推測されるのは、開けた天の下でイエスは生活しておられた!ということです。受洗後、イエスは「聖霊に満ちて」おられましたし、ご自分の教えと癒しと圧迫された者たちの解放のミニストリーを始めるために「“霊”の力に満ちて」ガリラヤに帰られました(ルカ4・1、14)。イエスが力に満ちてミニストリーを始められたのは、受洗以前ではなく、受洗の日以降でした。イエスは神の一人息子であるにもかかわらず、聖霊に依存する人間として生きることを選ばれたのです。

荒れ野で悪魔の誘惑に対抗した後、イエスはナザレで会堂に入り、就任挨拶代わりの説教をされました。その中でイエスは御自分のメシアとしての使命を総括されました。イエスは預言者イザヤの巻物を取り、メシアについての預言を読まれました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18-19)。

次にイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。それは実際、イエスの「ミッション・ステートメント(使命についての声明文)」で、ご自分が何をするために来られたのかを完璧に説明しています。イエスが聖霊によって油注がれているのは、束縛、盲目、病気、圧迫、非行、悲惨さが見られるすべての場所に送られ、実際に人々を自由にすることによって、救いのよい知らせを宣言し、かつ、目に見える形でそれを実証するためです。

イエスは、ご自分が伝えている福音は、力を伴っているのでよい知らせだと私たちに教えておられます。逆に言うと、力が伴っていなければ、福音はよい知らせではないということになります。この基本的な考え方を明確にするのに役立ちそうな一例を挙げます。暗くてじめじめした地下牢を想像してみてください。何百人もの人々が鎖につながれています。彼らは不潔で、空腹で、寒さに震え、病に苦しみ、惨めで、苦々しい思いと絶望に満ちています。次に、その牢獄に誰かが入って来て大声で宣言するとしましょう。「おーい、みんな! よい知らせだ。獄中の扉を開けてすべての捕われ人を解放するために来られた救い主がおられるぞ。とにかく、私はそれを君たちに知らせたかっただけなのだ。よい一日を過ごしてくれ」。そう言って、その人は出て行きます。皆、前と同じように鎖につながれたままです。このメッセージはよい知らせだったのでしょうか? もちろん、宣言されたことが実際に起こるまでは、よい知らせなんかではありません。福音も同じことです。福音は、それが宣言していること、すなわち、癒し、自由、赦し、祝福、救いを実際にもたらす力を伴って伝えられるからよい知らせなのです。

もう一つのとてつもなく重要な真理が、ルカ4・18~19のイエスのミッション・ステートメントに埋め込まれています。イエスは、ご自分が始めようとしておられるすべての力に満ちた業(わざ)、すなわち、癒し、奇跡、悪霊追い出し、権威ある教え、神の御国の到来の宣言は、神の子として持っておられる神的な全能の力ではなく、ご自分の人性に付与された聖霊の油注ぎに起因すると言っておられるのです。これが非常に重要な訳は、イエスは、私たちご自分の弟子たちに、イエスご自身に油注がれた聖霊とまさに同じ聖霊を与えると約束されたからです。ご自分の人性が聖霊によって満たされ強められていたことに、ちょうどイエスのミッションの基盤があったように、私たちのミッションの基盤も、聖霊によって満たされ強められていることにあります。その聖霊はまず聖霊降臨において注がれ、今では洗礼と堅信を通して与えられており、その臨在はキリスト者の生活において継続的に新たにされていくべきものです。

ご自分の使命のエッセンスを宣言された後、イエスはそのとおりのことを始められました。その時点以降、福音書の大部分がイエスの癒し、解放、奇跡についての記述に費やされています。再三にわたって福音書はイエスのミニストリーを次のような言い方でまとめています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4・23)。イエスの癒しや奇跡は、その宣教と切り離すことができません。それは、イエスが宣べるよい知らせの単なる外面的な証拠ではなく、それが具現化されたものです。御国がここに来ていることを目に見える形で明示するものです。ご自分は本当にメシアであり、罪とあらゆる悪に勝っておられる、すべての病人とすべての罪人を憐れんでおられる、人々を解放するために来ておられる、というメッセージが本当であることを非常に説得力のある方法で示すものです。

どう宣教するか、ご自身の生き方で示された後、イエスはご自分の使命を継続するよう弟子たちに命じられました。ご自分と同じように福音を宣べ伝えるよう命令されたのです。すなわち、言葉だけでなく、その真実を実証する超自然的な行為によって。イエスは12人に指示されました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・7~8)。さて、多くのキリスト者は、この途方もない指令を読んで、これは使徒たちだけが受けた指令だと思い込んでいます。でもこの思い込みには根拠がありません。なぜならイエスは、後で70人の弟子からなるもっと大きな集団を送り出しておられます(この弟子たちは、全ての時代の弟子たちを代表しています)し、彼らに基本的に同じ指令を出しておられるからです。「どこかの町に入り、迎え入れられたら、……その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(ルカ10・8~9)。

ここでも、これを読んで、この命令は、教会の当初の成長期に初代のキリスト者だけに与えられたものだと思い込む人々がいます。でも福音書はそのような結論の余地を残していません。なぜなら復活された主はご昇天の直前に再度それを繰り返しておられるからです。それは全ての時代に有効な命令と約束です。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マルコ16・15~18)。

普通のキリスト者が途方もないことあるいは不可能なことでさえ行うことを主はどうして期待できるのでしょうか? その秘密を主はご昇天前のご自分の言葉の中に示しておられます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1・8)。弟子たちを「高い所からの力で覆い」(ルカ24・29)、人間的には不可能なことを行わせ、ひいては、イエス・キリストは罪とサタンと死に打ち勝たれたことを実証されるのは、聖霊なのです。

(以下、フィリポ、初代教会、聖フランシスコ・ザビエル、現在における力強い福音宣教の事例が紹介されています。)

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2020年01月01日

CHARIS 誕生時の教皇演説(2019/06/08)

教皇フランシスコの演説
カトリック・カリスマ刷新国際奉仕会(CHARIS)主催
国際リーダー会議参加者に向けて

パウロ6世記念ホール
2019年6月8日(土曜日)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます!

この復活節には、「おはよう」や「こんばんは」ではなく、「イエスは復活された」と人々が互いに挨拶する国々がありますが、いいですね! だから私たちもここでそのように互いに挨拶しましょう。「イエスは復活された!」[聴衆が「彼は復活された!」と応答。]

そうです、イエスは生きておられる! ありがとう、皆さんが歌った最初の歌 は私のお気に入りだということを覚えていてくれて。

今年の聖霊降臨の祭日、52年前に始まったカリスマ刷新の旅路に新たな段階が始まります。カリスマ刷新は、神の御心によって教会内で成長し、教皇聖パウロ6世の言葉を借りるなら、「教会のための好機です」(1975年5月19日、第3回カトリック・カリスマ刷新国際大会参加者への演説より)。

今日、私は教会を代表して、過去30年に渡り使命を果たしてきた国際カトリック・カリスマ刷新奉仕会(ICCRS)とカトリック・カリスマ契約共同体友愛会(CF)に感謝します。あなたがたが草分けとなり、あなたがたの忠実によって、今日、CHARISが実現するのです。ありがとう!

この新たな唯一無二の奉仕職を誕生させるに当たり私が任命した4人チームにも感謝します。また、あなたがたを支援してきた信徒・家庭・いのちの部署とその長官であるファレル枢機卿にも感謝しています。

今日、一つのことが終わり、もう一つのことが始まります。この旅の新たな段階が始まりつつあります。この新たな段階の特徴は、カリスマ刷新の家族全員が一致の内に交わり、この一致と交わりの中で聖霊の力強い臨在が教会全体の益のために現れることです。この臨在は各自を平等にします。一人一人が同じ聖霊から生まれているからです。偉大な者も小さき者も、老いも若きも、世界規模であろうと一地方レベルであろうと、すべての人が全体を作り上げ、この全体はいつでも一部分だけより優れています。

新しく唯一の一致と交わりの奉仕

一致に向かって歩みましょう。これが聖霊の道です。

新しい。チルコ・マッシモ で私が皆さんに話したように、新しいものには不安定要素が付きものです。まず、新しさがもたらす変化に対する不確定感があります。私たちは時として自分なりのやり方を続ける方を好み、他の方法から距離を置こうとします。これは悪魔の誘惑です。誰かが、「いや、私のやり方のほうがあれよりもいい」とか「私は新しい方法よりも古い方法がいい」と考えるときには、いつでも悪魔がそこにいます。悪魔はそうやって他の人々との一致から私を切り離そうとするのです。確かに、人間なら誰しも新たなものに対して一定の恐れを感じるものですが、霊的な人々の場合はそうではありません。『ヨハネの黙示録』で、「見よ、わたしは万物を新しくする」(21・5)と主は言われます。私たちの神は、新たなるものの神です。神の新しい物事はいつでも祝福です。それらは愛あふれる御心から流れ出るからです。このように言う誘惑はいつでもあります。「私たちは今のままで大丈夫。万事うまく行っている。なぜ変える必要がある? このままでいいよ。どうすればいいか分かっているのだし。」この考えは聖霊から来るのではありません。少なく見積もっても聖霊からではなく、たぶん世の霊からでしょう。この過ちに陥ってはなりません。「わたしは万物を新しくする」と主は言われます。

新しく、唯一無二。聖霊が世界中に立ち上げられたあらゆるカリスマ刷新の現状を支援するための奉仕機関。一部のグループに奉仕する機関と別のグループに奉仕するもう一つの機関ではありません。唯一の奉仕機関です。

奉仕。統治ではありません。世俗でも宗教界でも人間の組織である限り、個人の利益を追求し続ける誘惑はあり得ます。そして、注目を浴びたい、指導したい、金儲けをしたいという野心にも駆られがちです。腐敗はそこから入って来ます。そうではなく、奉仕です。いつも仕えるのです。奉仕とは、自分の財布を満たすことではありません。悪魔は財布を通して入って来ます。奉仕とは、与えることです。自分自身を与え尽くすことです。

一致と交わり。皆が心を一つにして御父に向かい、多様性ある一致を証しします。この52年間で聖霊が立ち上げられた霊的賜物、カリスマの多様性を証しするのです。預言者イザヤが言うように、「あなたの天幕に場所を広く取り」(54・2)なさい。そうすれば、同じ家族のメンバー全員がそこに住むことができます。この一つの家族においては、父である神は唯一であり、主イエス・キリストは一人、命の与え主である聖霊は一人です。この家族では、一人がもう一人より重要というのではなく、年齢も知性も能力も関係ありません。誰もが、同じ一人の父に愛されている子供です。この意味で、聖パウロの体とその部分のたとえは私たちに雄弁に物語っています(一コリ12・12〜26参照)。体の一つ一つの部分が他の部分すべてを必要としています。全員が一緒に結ばれているのです。

一致と交わり国際奉仕グループには青年代表の方がいますね。ここに来ていますか? おめでとう! 大いに歓迎します。若い人々は教会の未来です。確かに未来ですが、現在でもあります。青年は教会の現在であり未来です。皆さんが若者たちに彼らなりの責任を行使し、異なる視線で現在を見て、皆さんと共に未来に目を向ける立場と機会を与えていることを私は喜んでいます。

CHARISは今、マリーヌ文書 の出版権を所有していることも私は知りました。CHARISの代表が私にスペイン語訳を贈呈してくれました。ありがとう! これは良い物です。この文書を知らしめなさい! 以前皆さんに何度か話したように、この文書は「取扱説明書」です。恵みの潮流の羅針盤です。

教皇と教会がこの新しい奉仕機関から、CHARISから、そしてカリスマ刷新全体から何を期待しているのか教えて欲しい、と皆さんは私に頼みました。その前にジョークを一席。教皇は「スピリティスト」 から何を期待するでしょうか(笑)。教皇があなたがたから期待するのは、

・教会内のあらゆる人と聖霊による洗礼を分かち合うことです。これは、皆さんが受けている恵みです。それを分かち合いなさい! 自分たちだけに取って置かないでください。

・キリストの体である教会、イエス・キリストを信じる者たちの共同体の一致に奉仕することです。これはとても大切です。聖霊は教会内の一致を造られますが、多様性も造られる御方だからです。聖霊の個性は興味深いものです。種々のカリスマによって聖霊は最大限の多様性を創造されますが、それらのカリスマを一致させて調和させられます。聖バジリオが、「聖霊は、調和です」と言うように、聖霊は、聖三位一体の内に、そして私たちの間にも、調和を与えられるのです。

・そして、貧しい人々や肉体的にも霊的にも最も助けを必要としている人々に仕えることです。これは、誰かが考え付くように、このカリスマ刷新が共産主義者になることではありません。むしろ、福音主義者になるのです。福音書に書かれている通りです。

これら3つ、すなわち、聖霊による洗礼・キリストの体における一致・貧しい人々への奉仕は、世界に福音をもたらすために必要な証しです。これらの証しに、洗礼の恵みを受けた私たち全員が呼ばれています。福音宣教は、改宗させることではなく、まず何よりも証しです。愛の証しです。「見よ、彼らは何と互いに愛し合っていることか。」 初代キリスト者たちに出会った人々はこのように感銘を受けました。「見よ、彼らは何と互いに愛し合っていることか。」時として、少なからずの共同体がこう言われているのではありませんか。「見よ、彼らは何と互いに陰口を言い合っていることか!」これは聖霊から来るものではありません。「見よ、彼らは何と互いに愛し合っていることか。」福音を伝えることは、愛することです。あらゆる人間に注がれている神の愛を分かち合うことです。福音宣教のために組織を作ることはできます。プログラムを注意深く計画し研究することはできます。しかし、愛がなければ、共同体がなければ、それらは何の目的も果たしません! 「見よ、彼らは何と互いに愛し合っていることか。」これこそ共同体です。『ヨハネの手紙二』に、このような警告、勧告があります。「気をつけて(……)だれであろうと、キリストの教えを超えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」(8〜9節)。私たちの中にはこのように考える誘惑に駆られる者もいるでしょう。「いやいや、こんな風に物事を運営しよう、あんな風に建物を建てよう、云々。」愛が最初です。観念や方法論だけでは共同体を超えてしまいます。ヨハネは言いました。「これは世に属する霊であり、神から出た霊ではありません。」 「見よ、彼らは何と互いに愛し合っていることか。」

カリスマ刷新の皆さん、聖霊の恵みの潮流にいる皆さん、この愛の証し人でありなさい! そして、どうぞ私のために祈ってください。

さて、25分後に予定していることがあるのですが、後でその時刻に皆さんだけでもぜひやってみてください。しかし、今ここでも、25分後には教会全体が行うあることを皆さんと一緒に行いたいのです。それは、平和を祈り求める1分間の黙祷です。なぜかって? 今日は、5年前にパレスチナ国 とイスラエル国の両大統領がここバチカンで集った記念日だからです。両大統領と私は共に平和のために祈りました。今日は世界中で午後1時に合わせて黙祷をささげます。最後の祝福の前に、今ここでも共に祈りましょう。皆さん、お立ちください。(1分間の黙祷)

ありがとう。カリスマ刷新の共同体が静かにしているなんて、ほとんど英雄的行為ですね!(笑)ありがとう!

では、皆さんに私の祝福を与えます。(祝福の祈り)

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2019年06月08日

CHARIS 祈りのキャンペーン3(カンタラメッサ神父)

3.マリアと共に高間で聖霊を待つ

 『使徒言行録』では、11人の使徒の名前を挙げた後、著者は次のように続けます。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1・14)。
 まず、間違った印象を片付けなければなりません。高間において、ゴルゴタの丘の上でのように、マリアの名は数人の女性たちと共に記述されています。ですからマリアは彼女たちの一人として同等の存在にすぎないかのように思われます。しかしここですでに、その名前の直前にある称号、「イエスの母」はすべてを変え、マリアを全く異なるレベルに置いています。他の女性たちだけでなく、使徒たちよりも高い位置にです。
 マリアがイエスの母としてそこにおられる意味は何でしょう。それは、まさに来られようとしている聖霊が「マリアの御子の霊」であるということです。彼女と聖霊との間には客観的で不滅の絆があります。その絆とは、彼らが共に生み出した同じイエスです。イエスは「聖霊によって宿り」、「おとめマリアよりからだを受け」た、と教会の信条は宣言します。
 したがって、マリアはただ婦人たちの一人として高間にいたのではありません。確かに外面的には他の人たちと変わらないし、他の人たちより抜きん出ている特別なことをしているのでもありません。
 マリアは、十字架の足元で教会の母として私たちに現れました。そしてここ、高間においては、教会の代母として私たちに現れたのです。強く確信に満ちた代母です。自分の務めを果たすことができるように、代母はすでに洗礼を受けた人でなければなりません。マリアはそのような方でした。聖霊によって洗礼を受けた方が、聖霊による洗礼を受けようとしている教会に付き添っているのです。
 マリアは、『使徒言行録』では聖霊の訪れを待ち望みながら揺るぎなく祈る者として私たちに示されていますが、福音史家ルカがその福音書の冒頭で聖霊が降った方として私たちに示している、同じマリアです。神のお告げでマリアの上に聖霊が降られたことと五旬祭の日に教会の上に聖霊が降られたことの間には緊密な類似性があることをいくつかの要素が提示しています。そうなる理由は二つあり、一つはルカがその類似性を意図したからであり、もう一つは両者の状況には客観的な呼応部分があるためです。
 マリアに対して、聖霊は彼女を「包む」「いと高き方の力」として約束され(ルカ1・35)、使徒たちに対しては、同じようにイエスが彼らに「送る」「高い所からの力」として約束されています(ルカ24・49、使徒1・8)。マリアが聖霊を受けると、霊に促された言葉で、「偉大なこと」(ギリシア語で「メガラ」)を自分の身になさった主を「あがめ」(ギリシア語で「メガリネイ」)始めます(ルカ1・46~49参照)。同じように、使徒たちも聖霊を受けると、様々な言語で神の「偉大な業」(ギリシア語でメガレイア)を宣言し始めます(使徒2・11参照)。第二バチカン公会議もまたこの二つの出来事を結び付け、高間において「マリアも、すでにお告げのとき自分を覆った聖霊のたまものが与えられるように祈り求めていた」 と言っています。
 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(ルカ1・35)。このように聖霊が降られた後でマリアが遣わされて出会ったすべての人は、彼ら自身も聖霊に触れられたり突き動かされたりします(ルカ1・41、2・27参照)。聖霊を輝き出させるのは確かにイエスの現存ですが、イエスはマリアの内におられ、彼女を通して働いておられます。マリアは、彼女を影で包んだ雲のイメージ が提示するように、聖霊の櫃または神殿として表れています。実際、それは、旧約聖書で神の現存のしるし、または臨在の幕屋に神が来られるしるしであった輝く雲を思い起こさせます(出エジプト13・22、19・16参照)。
 教会はこの啓示された事実を取り上げ、直ちにその信条の中心に置きました。紀元2世紀末以来、イエスは「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」たことが使徒信条の内に証言されています。381年のコンスタンチノープル公会議では、聖霊の神性が定義されたのですが、この事項はニケア・コンスタンチノープル信条にも加えられ、私たちは今でもキリストが「聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け」たと宣言しています。
 したがって、これは、東方教会も西方教会も、カトリックもプロテスタントも、全てのキリスト者たちに受け入れられている信仰箇条です。それは確固たる土台であり、神の母を中心にしてキリスト者の一致を見出すには見過ごすことのできないものです。マリアは客観的かつ個人的に不滅の絆によって聖霊に結ばれているように見えます。その絆とは、イエスという位格〔ペルソナ〕です。聖霊とマリアは、各自の貢献の形は異なりますが、両者で共にイエスを生み出したのです。マリアと聖霊をばらばらにしておきたければ、キリストご自身をばらばらにする必要があります。キリストの内に聖霊とマリアの異なる働きが永遠に有形化され、具体化されたからです。
 人間の子が父と母を結ぶ以上に、イエスはマリアと聖霊を一つにしました。なぜなら、もしどの子供も、その人間としての存在そのものを通して、父と母がほんのつかのま肉によって一つにされたことを宣言しているのであれば、御子イエスは聖霊とマリアが「霊によって」、したがって不滅の方法で一致し続けていることを宣言しているのです。天のエルサレムにおいて、復活したイエスは、「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」た御方であり続けます。また感謝の祭儀〔エウカリスチア〕においても、私たちは「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」た御方を受けているのです。

教会の元祖カリスマ派であるマリア
 イエスに次いで、マリアは救いの歴史において最も偉大なカリスマ派です。マリアが最も多くのカリスマ、聖霊の賜物を有していたという意味においてではありません。それどころか、外面的にはほとんど霊の賜物を持っていないように見えます。マリアはどのような奇跡を行いましたか。使徒たちについては、彼らの影さえも人をいやしたと言われています(使徒5・15参照)。マリアの存命中には、一つの奇跡も知られていません。並外れた行い、衝撃的な行いも一切ありません。マリアが最も偉大なカリスマ派であるのは、聖霊が数ある驚くべき御業の中でも至高の御業をマリアの内に成し遂げられたからです。それは、聖霊がマリアから引き出されたのは、知恵の言葉でも統治の才でも幻でも夢でも預言でもなく、メシアの命そのもの、全ての霊的賜物の源、私たちが「恵みの上に恵みを受けた」(ヨハネ1・16)御方そのものであったことです。
 古代教会の教父の中には、とりわけマグニフィカトを引き合いに出したり『イザヤ書』8・3を間違った形で当てはめたりして、マリアに女預言者の称号を与えた者たちもいました。しかし、厳密に言えば、マリアは預言者の地位にはいません。預言者とは神の名によって語る者ですが、マリアは神の名によって語っていません。彼女はほとんどいつも沈黙していました。もしマリアが預言者なら、それは新しく崇高な意味においてです。つまり、神の言葉だけを「発し」てそれを生んだ、という意味において、マリアは預言者と言えます。
 マリアの内に聖霊がなさっていることは、もしそれが預言的霊感の単純な事例でないとすれば、むしろそれはカリスマ、霊の賜物と見なすことができ、また見なされなければなりません。しかも、このカリスマは、聖霊によって霊感を受けたり促されて神に代わって語ってきた預言者たちのカリスマを超越し、一人の人間という被造物に与えられた最高のカリスマなのです(二ペトロ1・21参照)。実際に、カリスマ、「霊の賜物」とは何でしょうか。そしてその定義は何でしょうか。聖パウロは、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるため」(一コリ12・7)と定義しています。マリアに現れた“霊”の働き以上に卓越した聖霊の働きの現れがあるでしょうか。そしての「神の母としての母性」以上に「全体の益」となる聖霊の働きの現れがあったでしょうか。ルカは、最初に受肉の業において、次に異なった形で聖霊降臨において、聖霊とのこれほど親密な関係にマリアを置きます。このようにして、ルカは聖霊の働きについて自分が抱いている一般概念に沿って、マリアを聖霊の影響下に行動する卓越した霊的被造物として、また、神の創造の御業が現れる場所として紹介します。しかし、そうだからといって、マリアの感情と感覚にも人格の最も親密な領域にも触れてはいないという理由で、マリアと聖霊との間に客観的で機能上の関係しかないと私たちが想像してはなりません。マリアは神が御業を行われた単なる「場所」ではないのです。神は人々を場所としては扱われません。むしろ人々として扱われますから、つまり私たちを協働者、対話者として扱われます。ルカは、聖霊がご自分の御業によって引き起こす「目覚めたままの陶酔〔the sober intoxication〕」によく気付いています。イエスの生涯において、ある日聖霊に動かされて「喜びにあふれ」たイエスにルカは焦点を当てます(ルカ10・21参照)。使徒たちも同様に描かれます。彼らは聖霊を受けると異言で語り出し、常軌を逸した彼らの様子に一部の人々は新しいぶどう酒に酔っていると勘違いしたほどです(使徒2・13参照)。最後に、ルカはマリアについても同じように記しています。彼女の内に聖霊が降られた後に、マリアは急いでエリサベトに会いに出かけ、自分の思いの高まり全てを表したマグニフィカトを歌い始めるのです。
 聖ボナベントゥラは、聖霊の働きによるそのような効果を知っていた神秘家ですが、この時のマリアについてこう述べています。「マリアの内に聖霊は神の炎として来られ、彼女の魂を燃え立たせ、彼女の肉を聖なるものとし、彼女に最も完全な純潔をお与えになりました。(……)ああ、天から降ってきた炎がどれほど偉大か、それに伴う涼やかさがどれほどのものか、どんな安らぎが注がれ、おとめである御母がどれほど高められ、人類がどれほど気高くされ、神の威光がどれほどへりくだられたのか、あなたもここで少しでも聞くことができていたなら、(……)あなたも甘美な声で、最も祝されたおとめマリアと共に、あの聖なる歌を「わたしの魂は主をあがめ」と唄い出し、胎児であったあの預言者と共に喜び踊り、おとめマリアの驚くべき受胎をほめたたえるでしょう。」
 ルターですら、マグニフィカトについての注釈で、おとめマリアの賛歌を聖霊の並外れた働きとしています。「この聖なる賛美の歌をよく理解するために気づかなければならないのは、祝福されたおとめマリアが聖霊によって照らされ、教えられた自身の経験から語っていることです。人は誰でも聖霊によって直接与えられなければ神も神の御言葉も正しく理解できません。しかし、この賜物を聖霊から受け取るとは、それを体験し、感じ取ることです。聖霊は、いわばご自分の学校で、体験によって教えておられます。言葉と講話だけで学ばせようとする他の学校とは違います。したがって、聖なるおとめは、卑しく貧しく見下されていたにもかかわらず、神が自分の内に偉大な御業をなさったことを自身で経験し、聖霊は彼女にこの豊かな知識と知恵を教えておられます。これによって、神は低い者を高く上げ、高ぶる者を低くすることを喜ばれる主であることをマリアは知ったのです。」
 マリアは「聖霊による目覚めたままの陶酔」の生きた手本です。1975年、聖ペトロ大聖堂におけるカトリック・カリスマ刷新と教会組織との最初の歴史的な会合において、パウロ6世教皇はスピーチ原稿を読み上げたのち、聖アンブロジオ聖歌の一節を引用されました。「目覚めたまま酔わせる聖霊の満ちあふれを喜んで飲もう(Laeti bibamus sobriam profusionem Spiritus)。」そして、これこそカトリック・カリスマ刷新のモットーとなるのではないかと言われたのです。

CHARIS(カリス)の模範であるマリア
 第二バチカン公会議は、教父たちがマリアを言い表すのに好んで使った表現、「教会の典型」、教会の模範、教会の母という表現を周知させました。私は、特別な意味で、マリアがCHARIS(カリス)の模範であると強調したいのです。「カリス」という言葉そのものが「恵まれた」(ギリシア語で「カリス」から派生した「ケカリトメネ」)方であるマリアを指しています。しかしこれだけではありません。神のお告げの際にはご自身の内に聖霊の力を受けて体験された方、マリアは、聖霊降臨では弟子たちに寄り添い、彼らも同じ賜物を受け、同じ「高い所からの力」を受けることができるようにされます。
 そしてこれこそ、教皇様と教会がCHARISに望んでいる姿です。CHARISは、マリアのように、法的行政的権力はなくともへりくだって奉仕し寄り添うだけの道具です。CHARISは、新しい聖霊降臨の恵みの潮流を体験した人々が教会内で他の人々に奉仕する側に身を置く場所です。そうすれば、彼らも同じ刷新の恵みを経験することができます。CHARISは、ただで受けた者たちがただで与える場なのです。
 おとめマリアに捧げられた五月、私たちも「高間でマリアと共に聖霊を待つ」ことができる助けとして、特別な祈りを私は提案します。それは、救いの歴史における聖霊の大いなる臨在を呼び起こす「神秘」を黙想するロザリオの祈りです。同時に、「アベ・マリアの祈り」を繰り返しながら、聖母の執り成しによって私たちが自分の内に聖霊の実を体験できるように祈り求めます。各神秘の黙想を導く言葉を次のように考えてみました。

 第一の神秘。創造の御業における聖霊を黙想しましょう。「初めに、神は天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1・1〜2)。聖霊に願いましょう。「聖霊よ、世の初めにあなたは光を闇から分け、地を海から分け、混沌を秩序に変えてくださいました。この奇跡を今日の世界でも再び行なってください。教会にも、私たちの霊魂にも、分裂のあるところに一致を、闇のあるところに光をもたらし、私たちの内に新しい心を創ってくださいますように。」(続いて主の祈り1回、アベ・マリアの祈り10回、栄唱1回を唱える。以下の神秘も同様。)
 第二の神秘。啓示における聖霊を黙想しましょう。「預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」(二ペトロ1・21)。聖霊に、「神の言葉の理解」を願いましょう。神の息を吹き入れられた聖書は今、神を呼吸し、神を「発散」させています。「聖霊よ、私たちが神の言葉の内に自分自身を理解し、人生のどんな状況においても私たちに関わる神の生きた御心を見抜くことができますように。マリアのように、私たちも神のあらゆる言葉を知り、心に納め、思い巡らしますように。」
 第三の神秘。受肉における聖霊を黙想しましょう。「マリアは天使に言った。『どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。』」(ルカ1・34〜35)。私たちも、試練に遭ったり神が私たちに願っておられる新しい物事に直面したりすると、「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」、つまり、「私は自分の内にそのような能力を持っていません。これは私の力を越えています」とつぶやきがちです。神のお答えはいつも同じです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1・8)。聖霊に願いましょう。「聖霊よ、あなたがおとめマリアの胎内にキリストの人性を形づくられ、マリアを通して世に御子をお与えになったように、私たちの内にもキリストを形づくり、私たちの兄弟姉妹にそれを宣言する力を与えてください。」
 第四の神秘。イエスのご生涯における聖霊を黙想しましょう。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた」(ルカ3・21〜22)。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(ルカ4・18)。洗礼によって、イエスは王・預言者・祭司として油注がれました。石膏壺の中に香油が注入されるように、イエスの内に聖霊が注入され(アンチオケの聖イグナチオ)、人々の内に住まわれることになじんでいきました(聖イレネオ)。十字架の上で、イエスの人性という石膏壺は砕かれ、主の霊という香油が世に注がれました。マリアの執り成しによって、私たちが洗礼によって受けた王職・預言職・祭司職の油注ぎの刷新を願いましょう。「マリア様、私たちの人間性と自我というガラス瓶を砕くことができるよう私たちを助けてください。私たちが世において『キリストの良い香り』となれますように。」
 第五の神秘。教会の命と歩みの内にある聖霊を黙想しましょう。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ(……)た」(使徒2・3〜4)。イエスが昇天される前になさった約束は、実現されました。「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたはまもなく聖霊による洗礼を授けられる」(使徒1・5)。その日以来、教会のあらゆるものは生き、聖霊からの力を受けています。秘跡も、御言葉も、組織機関も、生きているのです。霊魂が人の体のためにあるのと同じように、聖霊は教会であるキリストの体のためにあります(聖アウグスチヌス)。聖母マリアの執り成しによって、多くの人々が心を開いて聖霊による洗礼の新たな恵みを受けることができるよう祈りましょう。

 この聖霊のロザリオに、聖霊の連祷を加えましょう。聖霊の称号を思い出しましょう。聖性の霊、平和の霊、喜びの霊、謙遜の霊、和解の霊、キリストの霊、など。祈りの集いで祈る場合は、各自が自分の心に親しく感じる聖霊の称号を宣言し、皆で一緒に応答しましょう、「私たちの上に来てください」と。

ラニエロ・カンタラメッサ神父(カプチン・フランシスコ修道会)
CHARIS補佐司祭

[訳注・聖書の日本語訳は、特記されない限りすべて新共同訳を使用しています。]

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2019年05月01日

CHARIS 祈りのキャンペーン2(カンタラメッサ神父)

2. 力を神に帰せよ!

 2019年聖霊降臨の主日に向かって私たちの霊を準備する旅路は続きます。前回は、聖霊を受けるには祈りが大切であることを思い巡らしました。この2回目の考察では、回心 が大切であることを黙想していきます。
 福音書では、「回心」という言葉は二つの異なる状況で繰り返し登場し、二つの異なる範囲の聴衆に語りかけられています。一つはあらゆる人に向けられており、もう一つはすでにイエスの招きを受け入れてイエスと共にある程度歩んでいる人々に向けられています。ここで第一の回心を取り上げるのは、第二の回心をよりよく理解するために他なりません。このことは、カトリック・カリスマ刷新の歩みにおいて移行の瞬間を迎えている今の私たちには大変興味深いものです。イエスの福音宣言は、プログラム化された手順を伝える言葉で始まります。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)。
 イエス以前、回心は常に「立ち帰る」(ヘブライ語の「シューブ」は経路を戻る、自分の足跡をたどって戻って行く、という意味)ことを意味しました。これは、人生のある時点で「道を外れた」と気づいた人がとる行動を示していました。そのとき人は立ち止まり、考え直します。引き返して掟を守り、神との契約に再び入ろうと決意します。それが本当の「方向転換」を引き起こします。この場合の回心には本来倫理的な意味があり、苦労して達成しなければならないこと、すなわち習慣を変えることを提案しています。
 これが、旧約聖書の歴代の預言者たちと洗礼者ヨハネが語ってきた回心の通常の意味です。しかし、イエスの口から出た「回心」は意味が変わります。言葉の意味を変える特権をイエスが享受されたからではありません。イエスの到来と共に物事が変わってしまったからです。「時は満ち、神の国は近づいた!」回心することとは、古い契約と掟の遵守に戻ることを意味するのではなく、一足飛びで前進して御国に入ること、神の自由かつ至高の主導を通して無償で人類の元にやって来た救いをつかみ取ることを意味するようになったのです。
 回心と救いは順序を交換しました。まず回心があり、それからその結果として救いが来るのではありません。逆です。最初に救いがあり、その必要条件として回心が要求されるのです。旧約の預言者たちが言っていたように、「立ち帰れ、そうすればあなたがたの間に神の国が来るであろう、メシアが来るであろう」ではなく、「悔い改めよ、なぜなら御国はすでに来ていて、あなたがたの間にあるのだから」です。回心することは、神の救いの決意を受け取ることであり、神の国に関するたとえがいくつも示しているように、目の前に差し出された決定事項を受け入れることなのです。
 「悔い改めて信じなさい」は、二段階で進む行為ではなく、根本から同一の行動です。回心する=信じる、です! 信じることによって回心させられるのです! これに必要なのは、真の「回心」、神との交わりに対する私たちの概念を深く変えることです。ここで必要なのは、「頼み、命じ、脅す神」という考えから「私たちに何もかも与えようと両手をいっぱいにしてやって来る神」という考えに移行することです。これこそが、聖パウロにとってあれほど大切だった「律法」から「恵み」への回心です。
 では、福音書に登場する回心のもう一つの状況に耳を傾けましょう。
 「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばんえらいのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18・1−4)。
 今度の回心は、そうです、戻ること、しかも子供の頃であった時にまで戻ることを意味します。ここで使われているギリシア語の動詞、「ストレフォ」 は、順序や方向を逆転・反転させることを意味しています。これは、すでに神の国に入り、福音を信じ、長年キリストに仕えて来た者たちの回心です。これは私たちの回心、カリスマ刷新の中に、おそらくはその始まりから、ずっといる私たちの回心です!
 使徒たちに何が起きていたのでしょうか。誰が一番偉いかという議論は何を示しているでしょうか。彼らの最大の関心がもはや御国ではなく、御国における自分の地位、自我だったということです。各自が一番偉い地位を熱望するだけの何らかの肩書きを持っていました。ペトロは首位座を約束されていました。ユダは金入れを預かっていました。マタイは自分が他の誰よりも多い財産をすべて捨てたと自負したでしょう。アンデレは我こそイエスに最初に従った弟子だと主張したでしょう。ヤコブとヨハネはタボル山に同行できたのは自分たちだったと反論したでしょう。こんな状況の実りは明らかです。競争心。疑念。対立。不満。
 子供に戻るとは、使徒たちにとって、湖岸や収税所でイエスに呼ばれた時の自分に戻ることでした。偉ぶらず、肩書きもなく、仲間内の比較もなく、妬みも競争心もなかったあの頃です。「人間をとる漁師にしよう」という約束とイエスご自身の臨在によってのみ豊かにされていたあの頃、互いが一番の座を奪い合う競争相手ではなく、同じ冒険の仲間同士だった頃に戻るのです。私たちにとっても、子供であることに戻るとは、最初に聖霊を自分で直接体験した瞬間、イエスの主権下で生きるとはどういうことかを発見した瞬間に再び戻ることを意味します。私たちが、「イエスがいれば何もいらない!」と言い、信じたあの時に。
 使徒パウロが『フィリピの信徒への手紙』3章で述べた例は私の心を打ちます。イエスが自分の主であることを発見したパウロは、キリストを得るため、キリストへの信仰による義を着るために、過去の栄光をことごとく損失、塵あくたとみなしていました。しかしその後でこう言います。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ(……)」(フィリピ3・13)。どんな過去を忘れると? もはやファリサイ派であった頃の過去ではなく、使徒として生きて来た過去です。キリストに仕える行いから生じる新たな「益」、自分自身の新たな「義」をかざすことの危険をパウロは嗅ぎ取ったのです。ですから、この決意をもってパウロはすべてをリセットします。「私は過去のことはもう忘れる。そして未来に向かって進む。」
 ここに、カトリック・カリスマ刷新の私たちにとって貴重な教訓を見ないではいられません。この刷新の初期に流布していた多くのスローガンの一つは、まるで戦場にこだまする雄叫びのように、「力を神に帰せよ!」でした。これはおそらく詩編68・35の「神の力を認めよ」 から発想を得たものでしょう。ウルガタ訳では「神にその力を払い戻せ(reddite)」と訳されています。長い間私はこの言い回しをカリスマ刷新の新規性を描写する最高の表現だと考えてきました。その叫びは教会全体に呼びかけられており、それを響かせる責任は私たちに託されたと考えていたのです。でも、今は違います。それは私たちに、おそらく気づかないうちに、神のものである力を部分的に自分のものとして占有してきた私たちに呼びかけられているのだと考えています。
 カリスマ刷新という恵みの潮流の新たな再出発を考えると、必要なのは「ポケットの中身を全部出す」こと、自分自身をリセットし、イエスご自身が提案された言葉、「わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカ17・10)を深く確信して繰り返すことです。使徒パウロの目的を私たち自身の目的にしましょう。「私は過去のことはもう忘れる。そして未来に向かって進む。」『ヨハネの黙示録』に登場する「二十四人の長老」に倣い、私たちも「自分たちの冠を玉座の前に投げ出して」、声高らかに宣言するのです、「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」(黙示録4・10-11)と。
 神がイザヤに語られた言葉は常に今日的な意味を帯びています。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたはそれを悟らないのか」(イザヤ43・19)。神が今この瞬間私たちと教会のために思い描いておられる新しいことを行っていただけるように、私たちが忠実な僕として主に仕えるなら、なんと私たちは幸いでしょう。
 今回の祈りの鎖で私が提案するのは、聖霊降臨の主日に歌う『聖霊の続唱』から各自が特に必要と思われる領域を一つ選び、日中数回それを祈願の形で繰り返し唱えることです。
 汚れたものを清めてください。
 すさみをうるおしてください。
 受けた痛手をいやしてください。
 固い心を和らげてください。
 冷たさを温めてください。
 乱れた心を正してください。

ラニエロ・カンタラメッサ神父(カプチン・フランシスコ修道会)
CHARIS補佐司祭

[訳注・聖書の日本語訳は、特記されない限りすべて新共同訳を使用しています。]

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2019年04月01日

CHARIS 祈りのキャンペーン1(カンタラメッサ神父)

1. 共に祈り、聖霊を受けよう

 来る聖霊降臨の主日に、カトリック・カリスマ刷新の恵みの潮流全体に奉仕する機関が新たに一元化され、CHARIS(カリス)として始動します。この日は、私たちと全教会の上に聖霊が新たに注がれるまたとない機会です。この考察は、調整委員会が私に依頼してきた連続3回の考察の1回目ですが、どの回の目的も、このイベントの霊的成功に貢献すべく祈りに専念したいと願う多くの兄弟姉妹を聖書的神学的基盤で支え励ますことに他なりません。
 使徒たちはいかにして聖霊の訪れに備えていたのでしょうか。祈りによってです。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1・14)。高間でマリアと共に集まっていた使徒たちの祈りは、最初のエピクレシス、すなわち聖霊を願う祈りです。聖霊を呼び求めるというエピクレシスの次元が教会に始まったのです。この「聖霊、来てください」は永遠に教会内で響き続けます。そして、典礼は聖変化という最も重要な行為を導入するためにエピクレシス[訳注・たとえば第二奉献文では、「いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください」という祈り]を用いるのです。
 教会が祈っていると、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、(……)一同は聖霊に満たされ」(使徒2・2~4)ました。キリストの洗礼で起こったことが再び起こったのです。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が(……)イエスの上に降ってきた」(ルカ3・21~22)。聖ルカは、天を貫いて聖霊をイエスの上に降らせたのはイエス御自身の祈りだった、と言いたかったのではないでしょうか。同じことが聖霊降臨で起こったのです。
 驚くべきことに、『使徒言行録』では聖霊の訪れが絶えず祈りと結び付けられています。洗礼の決定的役割は確かに語られてはいますが(使徒2・38)、祈る必要性をより強調しているのです。サウロは、主が彼の視力を回復させ聖霊で彼を満たすためにアナニアを遣わされたとき、祈っていました(使徒9・9~11)。サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いた使徒たちは、ペトロとヨハネを遣わしました。「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った」(使徒8・15)。
 このとき、魔術師シモンは聖霊を金銭で手に入れようとしたので、使徒たちは憤然と応じました(使徒8・18~24)。聖霊は金銭で買うことができません。人は聖霊を祈りによってしか願い求めることができないのです。イエスご自身も、聖霊という賜物を祈りと結びつけ、こう言われました。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11・13)。
 イエスは聖霊を私たちの祈りと結びつけられただけでなく、何よりも御自身の祈りに結び付け、こう言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして(……)くださる」(ヨハネ14・16)。祈りと聖霊という賜物との間には、恵みと自由の間に存在するのと同じ循環性と浸透性があります。私たちは祈ることができるように聖霊を受ける必要があり、聖霊を受けるために祈る必要があるのです。恵みの賜物が最初にやって来ますが、この賜物が保たれ増し加えられるように私たちは祈る必要があるのです。
 しかしながら、このことは何か抽象的であいまいな教えにとどまるものではありません。それは私に個人的に何かを語らずにはいられないのです。あなたは聖霊を受けたいと願っていますか。あなたは弱いと感じ、「高い所からの力に覆われ」(ルカ24・49)たいですか。あなたは生ぬるいと感じ、熱くされたいですか。渇いているので、水を欲していますか。硬いので、柔らかくされたいですか。過去の生き方に満足せず、新たにされたいですか。祈りなさい、祈りなさい、祈りなさい! ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス、聖霊よ、来てください! この静かな叫びが決して消えてしまわないように。もし信徒一人でも二人以上が祈りや黙想会で集まっても、高い所からの力に覆われて聖霊による洗礼を授けられるまでは決してその場を去るまいと決心したら、その人またはグループはまず彼らが求めていたもの、さらにそれ以上のものを受け取らずにその場を去ることはないでしょう。これこそ、カトリック・カリスマ刷新が始まった最初の黙想会でデュケイン大学の学生たちに起こったことです。
 私たちの祈りは、マリアと使徒たちのように「心を合わせて熱心に」ささげられる祈りでなければなりません。「心を合わせて」、つまり「一致して」(ラテン語訳では「コン・コルデ」、ギリシア語では「ホモスマドン」)は、文字通り、一つの思い、「一つの魂」でなされるという意味です。イエスは言われました。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18・19)。
 マリアと使徒たちの祈りの二つ目の明確な特徴は、「根気強さ」[訳注・新共同訳では「熱心に」、フランシスコ会訳では「ひたすら」]です。キリスト者の祈りのこの性質を表すギリシア語、「プロスカルテレオ」は、粘り強くあきらめない行い、絶えずコツコツ行うことを意味します。それは祈りにおいて「根気強い」あるいは「熱心な」と訳されますが、「決してあきらめず祈りにしがみつく」と訳することもできます。
 「プロスカルテレオ」はとても重要な言葉です。なぜなら、新約聖書では、この特別な祈りの態度を表現するのに最も頻繁に用いられる単語だからです。『使徒言行録』では、聖霊降臨からまもなく、私たちはこの言葉に出会います。使徒たちに仲間として加わった最初の信者たちは、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈りに熱心であった」(使徒2・42)。聖パウロも、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12・12)と信徒たちに懇願しました。『エフェソの信徒への手紙』では、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、(……)絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6・18)と勧告しています。この教えの本質はイエスに由来します。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」(ルカ18・1)を教えるためにしつこいやもめのたとえを使徒たちに話されたのは、イエス御自身でした。
 気落ちすることを良しとせず、ついに自分が望むものを恵みとして受ける粘り強い祈りの生きた手本は、カナンの女です。最初、彼女が自分の娘のいやしを願い求めると、聖書によれば、イエスは「何もお答えにならなかった」。それでもしつこく頼む彼女に、イエスはこうお答えになります。「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない。」それでもイエスの前にひれ伏して願う彼女に、「子供たちのパンをとって小犬にやってはいけない」とお答えになります。何という答え! がっかりするには十分です! それでもカナンの女はあきらめず、反論します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」するとイエスは喜んで叫ばれます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15・21)。
 忍耐して長い間祈ることは、言葉数を多くして「異邦人たちのようにくどくどと述べ」(マタイ6・7)るという意味ではありません。忍耐して祈ることとは、何度でも願い、願うことを決してやめず、希望することを決してやめず、決してあきらめないことでます。それは決して黙しないことであり、主をも黙らせてしまわないことを意味します。「主に思い起こしていただく役目のものよ 決して沈黙してはならない。また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは」(イザヤ62・6−7)。では、なぜ祈りは忍耐強く続けるべきもので、神は速やかにそれを聞いてはくださらないのでしょうか。聖書の中で、御名を呼べばすぐに、あるいは人が祈り終える前にですら、速やかに聞くと約束されたのは、主御自身ではないでしょうか。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける」(イザヤ65・24)。イエスも言われます。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(ルカ18・7)。
 私たちが実際に経験していることは、これらの言葉にあからさまに相反していないでしょうか。いいえ、神はいつも聞いていると約束し、遅れることなく私たちの祈りを聞くと約束されました。そしてそのようになさいます。耳を開かねばならないのは、私たちの方です。主が御自分の約束を守られるというのは100%真実です。助けが遅れていても、主はすでに助けておられます。実は、この遅れこそがすでに一種の助けなのです。
 それは、主が嘆願者の意向をあまりにも早くかなえたいと望んでおられず、むしろその人に完全な回復を確かなものにされたいからです。ここで私たちは、嘆願者の「意向」に沿った願いの成就と「必要」に応じた願いの成就を区別する必要があります。後者の方が、結局は嘆願者の救いになるのです。
 イエスは言われました。「探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7・7)。この御言葉を読んですぐに私たちが思うのは、イエスは私たちが求めるものは何でも与えると約束しておられるのだ、ということです。そしてそれがめったに起こらないと分かると、訳が分からなくなります。しかし、主は実際にただ一つのことを意味されたのです。「わたしを探しなさい。そうすれば、わたしを見つける。門をたたきなさい。そうすれば、わたしがあなたに向けて開く」と。イエスは、私たちのささいな願い事を超えて御自身を与えると約束しておられ、この約束はいついかなるときも変わることなく守られています。イエスを探し求める人は、イエスを見つけます。門をたたく人にはイエスの門の戸が開かれ、一旦このことが起こると他の物事はすべて二の次になります。私たちの祈りの目的が卓越した良い賜物、つまり神ご自身が何にもまして私たちに与えたいと望む賜物、聖霊であるなら、私たちはあらゆる偽りに警戒しなければなりません。
 私たちには、多かれ少なかれ意識的にですが、聖霊とは天からの力強い助け、私たちの祈りや熱意を心地よく生き返らせ、私たちの使命を効果的にし、十字架を担うことをより楽にするために来る命の息吹である、と思い描く傾向があります。あなたは自分の聖霊降臨を願ってこのように何年も祈っていますが、風のような息吹はないように感じられます。あなたが起こるように期待していたことは何一つ起こっていません。聖霊は、私たちの自己中心な思いを強めるためには注がれません。周囲をもっとよく見てごらんなさい。おそらく、あなたが自分自身のために願い求めた聖霊のすべては確かにあなたに与えられましたが、それは他の人たちのためでした。おそらく、あなたの周りにいる人々の祈りはあなたの言葉のおかげで新たにされ、あなたの祈りは以前と変わらず苦労の多いまま続いています。あなたの目の前にいる人々は、自分の心が貫かれ、良心の呵責を感じ、泣き叫びながら悔い改めましたが、あなたはまだその恵みを求めてそこにいるのです。
 神に御自分の自由を喜んで行使していただきましょう。神に御自分本来の自由を差し上げることをあなたの誉れとしましょう。これは、神が御自身の聖霊をあなたに与えようと選ばれたやり方で、最も美しい方法なのです。聖霊降臨の日、使徒たちの中には、神の言葉によって心を刺し貫かれた群衆が悔い改めるのを見て妬みと困惑を感じ、自分はナザレのイエスを十字架につけたことをまだ嘆いてはいないではないかと思った者がいたかもしれません。聖パウロは、説教するたびに聖霊とその力の顕れが伴いましたが、自分の身から一つのとげを取り去ってほしいと三度願っても決して聞かれず、神の力が自分の内に宿るように弱さと共に生きることを受け入れなければなりませんでした(二コリント12・7−9)。
 カリスマ刷新において、祈りはそれ以前と比べると新しい形で顕れています。すなわち集って祈る、グループで祈る形です。この形の祈りに参加した人は、使徒パウロがエフェソの信徒に手紙で書き送ったことの意味を理解するようになります。「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5・18〜20)、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、(……)絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6・18)。
 私たちが知る祈りの基本型は二つだけ、すなわち典礼の祈りと個人の祈りです。典礼の祈りは共同体としての祈りですが、それは形式に従い、自由に自発的な祈りの余地はありません。個人の祈りは形式にとらわれず自由で自発的に祈れますが、共同体の交わりはありません。ですから、私たちに必要なのは、聖霊が導くままに自由で自発的に祈りつつ各自の祈りを互いに分かち合い、様々な才能や霊的賜物を組み合わせ、熱意で互いを豊かにする時、様々な「火の舌」を合わせて一つの炎を形作る時です。つまり、私たちには共同体として自由で自発的に祈る祈りが必要なのです。
 この共同体の自由で自発的な祈り、すなわち「カリスマ的な」祈りの好例が『使徒言行録』4章にあります。ペトロとヨハネは、イエスの名によってこれ以上語ってはならないと命じられた後に牢獄から釈放され、自分たちの共同体の許へ帰り、祈り始めます。一人が、「地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」と聖書の言葉を宣言すると、もう一人は預言の賜物を用い、その御言葉を今の自分たちが置かれている状況に当てはめます。各自の信仰が団結して立ち上がったかのように、いやしとしるしと不思議な業を願い求める勇気を皆に与えました。最後に、最初の聖霊降臨で起こったことが再び起こり、皆が聖霊に満たされ、大胆にキリストを宣べ伝え続けたのです。
 カトリック・カリスマ刷新の奉仕機関の刷新と一元化に際して私たちが聖霊に願い求めるべき特別な賜物は、当初のカリスマ刷新の祈りのグループが体験した驚くべき業が再びよみがえることです。聖霊の臨在を吸い込めるかのように感じ取れた体験、キリストの主権が宣言されるべき真理であるばかりか手で触れることのできそうなほどの経験が、再び回復されることです。忘れないようにしましょう、祈りのグループや集いの祈りは、祈りの集いにもカリスマ的契約共同体にも共通する基本要素であることを。
 上記のどちらの祈りのスタイルでも、私たちは聖霊降臨への準備として祈りの鎖に参加できます。典礼の祈りが好きな人に私が提案するのは、典礼で用いられている聖霊を求める祈りを以下から好みに応じて一つ選び、それを一日数回繰り返し祈ることです。これによって、あなたは私たちに先立ってそれらを祈ってきた数え切れない信者の群れに加わることになります。
 「聖霊、来てください。信じる者の心を満たし、あなたの愛の火を燃やしてください。」
(ラテン語の原文で祈りたい方のために)“Veni, Sancte Spiritus, reple tuorum corda fidelium et tui amoris in eis ignem accende.”
 「主よ、あなたの霊を送って、地の表を新たにしてください。」
 「創り主の聖霊よ、来てください。私たちの心を訪れ、あなたが創られたこの心を天の恵みで満たしてください。」
 英語を話す兄弟姉妹の皆さんには、一人でもグループでも、私たちがペンテコステ派の兄弟たちからいただき、聖霊による洗礼を受けた時に何百万もの信徒たちが歌ったあの歌の言葉を(本来単数形の「私」を複数形の「私たち」に替えて)繰り返すことを提案します。
「生ける神の霊、私たちに新たに降ってください。私たちを溶かし、私たちを形作り、私たちを満たし、私たちを使ってください。生ける神の霊、私たちに新たに降ってください。」
「訳注・日本語訳の歌詞では、すでに複数形の「私たち」になっています。「生ける神の霊、宿りませ。生ける神の霊、私たちを溶かし、作り、満たし、使い、生ける神の霊、宿りませ。」」
 「ヴェニ・クレアトール(創り主の聖霊、来てください)」の祈りについて注釈した私の著書では、私も自分なりの聖霊を求める祈りを作ってみました。これが良いと促しを受ける人に喜んで分かち合いさせていただきます。
 「聖霊、来てください! 神の力と甘美、来てください! 来てください、あなたは動きであり平安!私たちの勇気を新たにしてください。世界の中で私たちの孤独を満たしてください。私たちの内に神との親しさを創り出してください。預言者のように、あなたがどこから来られるのかまだ知らないかのように『四方から吹き来れ』と私たちはもう言いません。私たちはこう言います。『聖霊よ、十字架の上で刺し貫かれたキリストのわき腹から来てください! 復活されたお方の口から来てください!』」

ラニエロ・カンタラメッサ神父(カプチン・フランシスコ修道会)
CHARIS補佐司祭

[訳注・聖書の日本語訳は、特記されない限りすべて新共同訳を使用しています。]

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2019年03月01日

聖霊刷新50周年の聖霊降臨祭ミサの教皇説教(2017/06/04)

バチカンの聖ペトロ広場における聖霊による刷新50周年記念大会にて
2017年6月4日(日)

今日、イエスの復活から聖霊降臨までの、特に聖霊の臨在によって特徴づけられる50日間の復活節が終わります。聖霊は実際、一段とすぐれた、復活祭の贈り物です。聖霊は創造主なる霊で、常に新しいことをもたらされます。今日の聖書の箇所は、それらの新しいことのうち二つを私たちに示しています。第一朗読(使徒言行録2・1-11)では、聖霊は弟子たちを新しい民にされます。福音書(ヨハネ20・19-23)では、聖霊は弟子たちのうちに新しい心を創造されます。

新しい民。五旬祭の日、聖霊は、「炎のような舌の形で天から降り、一人ひとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:3-4)。神の御言葉は聖霊の働きをこのように描写しています。聖霊は、まず一人ひとりの上にとどまり、次に彼ら全員を交わりのうちに呼び集められます。聖霊は、一人ひとりに賜物を与え、次に彼ら全員を一致へと寄せ集められるのです。言い換えれば、同じ聖霊が多様性と一致とを創造され、そのようにして新しい、多様な、一致した人々、つまり普遍教会を形づくられるのです。まず、創造的でかつ予期しない方法で、聖霊は多様性を生み出されます。なぜなら聖霊は、いつの時代においても、新しい様々なカリスマが花開くようになさるからです。次に聖霊は一致をもたらされます。聖霊は人々を結び付け、集め、調和を回復されるのです。ご自分の臨在とご自分の活動により、聖霊は、別個でそれぞれ異なる霊を一致へと引き寄せられます。聖霊は、神の御旨にしたがって、本当の一致がもたらされる方法でそうなさいます。その一致というのは、画一性による一致ではなく、違いを残したままの一致です。

それが起こるために、私たちは頻発する二つの誘惑を避ける必要があります。最初の誘惑は、一致のない多様性を求めることです。これが起こるのは、私たちが分離を望むとき、私たちが片寄って党派を組むとき、私たちが硬直・密閉した立場を取るとき、私たちが自分自身の考えとやり方に凝り固まるとき(そのとき、もしかしたら、自分たちは他の人々よりも優れているとか、自分たちは常に正しいと考えてさえいるのかもしれません)、私たちがいわゆる「真理の守護者」となるときです。このようなことが起こるとき、私たちは、教会に所属する以前にどこそこのグループに所属していると意識しており、全体よりも部分を優先することを選んでいるのです。そのとき、私たちは、一つの霊における兄弟姉妹よりも、一つの側の熱烈な支持者になるのです。そのとき、私たちは、イエスの側につく以前に、「右寄り」のあるいは「左寄り」のクリスチャンに、謙遜で感謝に満ちた、教会の子である以前に、過去を頑固に守護する者や未来についての先駆者になるのです。その結果は、一致のない多様性です。

正反対の誘惑は、多様性のない一致を求める誘惑です。そこでは、一致は画一性と同じ意味になり、常に同じように考えながら、誰もがあらゆることを同じ方法で共にしなくてはならなくなります。結局のところ、一致は同質性という意味になってしまい、もはやそこに自由はありません。しかし、聖パウロが言っているとおり、「主の霊のおられるところには自由があります(Ⅱコリント3:17)」。

ですから私たちが聖霊に向かう祈りは、聖霊による一致、つまり、個人的な好き嫌いを脇に置いて、主の教会、私たちの教会を抱き愛する眼差しを恵みとして祈り求めるものです。それは、全員が一致することについて責任を負うこと、不一致というドクムギとねたみという毒を蒔く陰口を一掃することです。なぜなら、教会の男性と女性であるということは交わり(コミュニオン)の男性と女性であるということだからです。またそれは、教会が私たちの母であり、私たちの家庭であると感じる心を求めることでもあります。そこは、人々に開かれ、人々を歓迎する家庭で、聖霊の多岐にわたる喜びが共有されているところです。

次は、聖霊によってもたらされる二つ目の新しいもの、つまり、新しい心について見てみましょう。復活されたイエスがご自分の弟子たちに最初に現れたとき、主は彼らに言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される(ヨハネ20:22-23)」と。イエスはご自分の受難の間に弟子たちがご自分を否定し捨てたことを非難なさらず、その代わりに赦しの霊を彼らにお与えになります。聖霊は、復活された主の最初の賜物であり、とりわけ罪の赦しのために与えられます。ここに私たちは教会の始まり、つまり、私たちを結びつける接着剤、家のレンガを結びつけるセメントである赦しを見るのです。赦しは最上の賜物なので、すべての中で最も偉大な愛なのです。それは、どんなことがあっても一致を保ち、崩壊を防ぎ、強固にし、強くします。赦しは私たちの心を自由にし、新たに歩み始めることを可能にしてくれます。赦しは希望を与えます。赦しなくして、教会は築き上げられません。

赦しの霊は、すべてのことを調和のうちに解決し、他のすべての方法を拒否するよう私たちを導きます。他の方法というのは、軽率な判断、すべての扉を閉めてしまうような窮地、他人を非難するだけの一方通行の道です。それよりも聖霊は、赦しを受け、かつ、与える両面通行の道、隣人への愛となる神のいつくしみの両面通行の道、あらゆることがなされるべきか、なされるべきでないか、あるいは変えられるべきか変えられるべきではないか、その唯一の基準となる愛の両面通行の道へと私たちを招かれます。赦しと自己を正すことにより自分自身を刷新させると同時に、私たちの母である教会の顔をもっと美しくするための恵みを願い求めましょう。そうなって初めて、私たちは他人を愛のうちに正すことができるようになります。

聖霊は教会と私たちのうちに燃えている愛の火です。たとえ私たちが自分たちの罪という灰によりしばしばその愛の火(聖霊)を覆ってしまうとしても。聖霊に願い求めましょう。「私の心と教会の中心に住み、多様性のうちに教会を導き形成しておられる主である神の霊よ、来てください!水と同様、私たちは生きるためにあなたを必要としています。私たちの上に新たに降臨してください。私たちに一致を教えてください。私たちの心を新たにし、あなたが私たちを愛するように愛することを、あなたが私たちを赦すように赦すことを私たちに教えてください。アーメン。」

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2017年06月04日

聖霊刷新50周年の聖霊降臨前夜祭の教皇演説(2017/06/03)

ローマ市内の チルコ・マッシモにおける聖霊による刷新50周年記念大会にて
2017年6月3日(土)

兄弟姉妹の皆さん、

今日ここであなたがたが示している証しをありがとう。ありがとう! この証しは私たち全員にとって益となります。私のためにも、あらゆる人のためにも、これは良いものです!

『使徒言行録』第一章には、こう記されています。イエスは、「彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒1・4‐5)。
 
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままにほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2・1‐4)。

今日、ここにいる私たちは、あたかも青空を天井とする高間にいるようです。なぜなら、私たちは恐れてはいません。大空の下、私たちの心も御父の約束に向かって大きく開いています。「信じた私たち全員」が、「イエスは主である」と宣言する人々すべてが、集められています。多くの人々が世界の様々な国からやって来ました。このように聖霊が私たちを集めてくださったのは、兄弟姉妹として友情の絆を強め、それによって私たちを励まし、使命を果たすための一致に至る旅路を歩み続けることができるようにするためです。決してじっと立っているためではありません! そうではなく、「イエスは主である」と宣べ伝える使命、神が御自分の子供たち全員に注いでおられる愛を共に告げ知らせる使命を実行するためです!

福音をすべての民に告げ知らせるためです! 平和が可能であることを示すためです。平和が可能である、これを今日の世界に示すのは簡単ではありません。が、イエスの名によって私たちが証しをすれば、平和は可能だと示すことができます! ただし、それが可能であるのは、私たちが自分自身の間で平和を保っているときだけです。私たちが違いを強調すれば、互いに敵対し、平和を宣言できなくなります。平和が可能になるのは、イエスは主であるという私たちの告白から始まるときであり、この道に従う私たちの福音宣教から始まるときです。平和は可能です。明らかに私たちの間には違いがありますが、違いがあることを示しつつ、私たちは「和解を受け入れる多様性」でありたいのです。ここで、私たちはこの言葉を忘れてはなりません。私たちは誰にでも、「和解を受け入れる多様性」と言わなくてはなりません。この言葉遣いは私が言い出したのではありません。一人のルーテル派の兄弟が表したのです、「和解を受け入れる多様性」と。

さて、ここにいる私たちはなんと数多いことか! ここに集って共に祈り、私たち一人一人の上に聖霊が降ることを求めています。世界中の街々に出て行き、イエス・キリストの主権を告げ知らせるためです。

『使徒言行録』はこう証言しています。「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒2・9‐11)。同じ言語で話し、聞き、理解する・・・。違いはあります。しかし、私たちは聖霊によって自分自身の言語でイエスの復活のメッセージを理解できるようになります。

私たち、世界120か国から来た信者がここに集められたのは、聖霊が教会内で行われた至高の御業を祝うためですが、聖霊が50年前に始められ、生み出されたのは、一つの団体でしょうか? いいえ。一つの組織でしょうか? いいえ。恵みの潮流、カトリック・カリスマ刷新という恵みの潮流です。それはカトリシズムから生まれたのでしょうか? いいえ。エキュメニズムから生まれました! 聖霊は一致を創造する方であり、この同じ聖霊がそうなるようにと新たな息吹を与えられたのです! これに関するスーネンス枢機卿の著作を読むことは重要です。とても大切です。

聖霊が来られると、恐れによって隔離されていた男女は勇気あるイエスの証人に変えられます。ペトロは、以前三度もイエスを知らないと言いましたが、聖霊の力に満たされてこう宣言します。「だからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒2・36)。これこそ、あらゆるキリスト者の信仰宣言です! 神は、あなたが十字架につけて殺したイエス、十字架につけられたイエスを主とし、キリストとなさったのです。この信仰宣言に皆さんも同意しますか?[会場から「はい!」の大歓声] この信仰宣言は私たちのもの、みんなのもの、みんなのもの、同じです!

御言葉は引き続きこう述べます。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒2・44‐45)。彼らは持ち物を売りました。貧しい人々を助けました。ずる賢い人々も少数ですがいました。アナニアやサフィラのような人はいつでもいるものです。しかし、大多数の信者たちは互いに助け合っていました。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒2・46-47)。共同体は成長し、聖霊は彼らと共におられ、励ましておられました。私は、主の天使から、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道を行け」と言われたフィリポのことを考えるのが大好きです。フィリポはエチオピアの女王カンダケの全財産の管理をしていた高官を発見します。彼はユダヤ教改宗者で預言者イザヤの書を読んでいました。フィリポはイエスを宣べ伝え、このエチオピア人男性は回心しました。ある時点で、彼はこう言いました。「ここに水があります。洗礼を受けたいのです。」フィリポにそこへ行くように命じたのは聖霊であり、初めからすべての信者たちに主を宣べ伝えよと駆り立てたのは、聖霊でした。

今日、私たちはここに、トラエティーノ牧師が言われたように、この場所に集まることを選びました。ここは、迫害時代、観衆が娯楽として見つめる中でキリスト者が殉教した場所だからです。今日では、過去よりも多くの殉教者がいます! 今日、もっと多くのキリスト者が殉教しています。キリスト者を殺す人々は、殺す前に、「お前は正教会か? カトリックか? 福音派か? ルーテル派か? カルバン派か?」とは尋ねません。「お前はキリスト者か?」と尋ねます。「はい」と答えた人の喉は即座にかき切られます。以前よりも今日の方が殉教者は多いのです。これは、血のエキュメニズムです。私たちは、今日の私たちの殉教者の証しによって一つに結ばれています。世界の様々な場所で、キリスト者の血は流されています。今日、キリスト者の一致は、聖霊の御業を通して結ばれ、祈りの内に結ばれ、最も弱い人々を助ける行動の内に結ばれており、いまだかつてないほど緊急に必要とされています。共に歩みましょう。共に働きましょう。互いに愛し合いましょう。互いに愛し合いましょう。そして共に違いを説明し合意に達することを求めつつ、旅路をたどり続けましょう。もし私たちが歩みを進めず立ち止まっていたら、決して合意に達することはないでしょう。聖霊のなさり方はそうなのです。聖霊は私たちに歩み続けることを望んでおられます。

カトリック・カリスマ刷新の50年。聖霊の恵みの潮流! なぜ、恵みの潮流でしょうか? そこに創立者はおらず、法規もなく、管理機関もないからです。この潮流の中で明らかに多彩な表現が生まれて来ています。確かにそれらは聖霊の息吹を受けた人間の業であり、様々なカリスマが用いられ、すべては教会の奉仕のために用いられています。しかし、この潮流はダムでせき止めることができないし、聖霊を鳥籠に閉じ込めておくこともできません!

50年が過ぎました。私たち人間はこの年齢に達すると、力が衰えるようになるものです。人生半ばに到達したのです。私の母国では、「エル・シンクェンタゾ(五十の大台)」と言います。皺は深くなり、隠そうと思えば隠せますが、その存在を否定できません。白髪の数は増え、物忘れが多くなります。

50年は立ち止まって人生を振り返るのにふさわしい時です。人生半ばは内省の時です。そして、私が思うに、それは、より大きな決意と力をもって前進する時でもあります。積もり積もった時間の埃を後にし、今まで受けた物事を感謝し、聖霊の御業に信頼しつつ新しいことに向かい合うのです。

聖霊降臨は教会の誕生を可能にしました。イエスが告げられた御父の約束である聖霊は、教会を創造する方です。この教会は、『ヨハネの黙示録』に描かれている花嫁であり、唯一無二の花嫁です! トラエティーノ牧師が言われたように、主の花嫁はただ一人です!

私たちが皆受けている最も貴い賜物は、洗礼です。今、聖霊は私たちを回心の道へと招いておられます。この回心の道はキリスト教世界全体が歩むべき道です。これこそ、一致に至る道においてカトリック・カリスマ刷新が特別な場所を与えられているもう一つの理由です!

この恵みの潮流は、教会全体のためであり、一部分だけのためではありません。私たちの中で誰か一人が「主人」で他の人々は皆僕〔しもべ〕なのではありません。違います。私たちは皆、この恵みの潮流の僕なのです。

この体験をしたあなたがたは、絶えず教会に賛美と祈りの力を思い出させています。神が無償で与えてくださる愛による恵みの業を認めて感謝する祈り、それが賛美です。このような祈り方が気に入らない人々もいますが、この賛美の祈りは聖書の伝統に完全に統合されています。たとえば、詩編です。ダビデは契約の箱の前で喜び踊りました。どうか、そのときダビデを恥じた妻ミカルのような態度を取るキリスト者の罠に陥らないようにしましょう。

歓喜、喝采、喜びは、聖霊の同じ御業の実りです! キリスト者は、心に喜びを体験するか、あるいはどこか具合が悪いのか、のどちらかです。福音の良い知らせを告げ知らせることは、喜びです! ナザレの会堂でイエスはイザヤ書を朗読されました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されているひとを自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18‐19、参照イザヤ61・1‐2)。福音。これを忘れてはなりません。福音、喜ばしい知らせ。キリスト者のメッセージはいつも喜ばしいものです。

スーネンス枢機卿とエルデル・カマラ大司教が著した第3マリーヌ文書、『カリスマ刷新と人類への奉仕』は、明記しています。カリスマ刷新は人類に奉仕するためにもある、と。

聖霊による洗礼、賛美、人類への奉仕。この三つは密接につながっています。私が深い賛美をささげることができるとしても、最も貧しい人々を助けなければ、その賛美は十分ではありません。「信者の中には、一人も貧しい者がいなかった」(使徒4・34)と『使徒言行録』は言っています。

私たちは、賛美によってではなく、イエスに何をしてきたかで裁かれることになります。「『主よ、いつわたしたちは、[あなたにそのようなことを]したでしょうか。』(……)『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・39‐40参照)。

愛する兄弟姉妹の皆さん、あなたがたに振り返るひと時、皆さんの起源を思い出す時がありますように。自我によって溜まったものをすべて後にして、それらを聖霊の御業に耳を澄ませて迎え入れることに変えて行きますように。聖霊は、思いのままに思いの場所に吹かれるからです!

今回の金祝、そしてこの前夜の祈りを主催したカトリック・カリスマ契約共同体フラタニティ(CFCCCF)と国際カトリック・カリスマ刷新奉仕会(ICCRS)に感謝します。そして、これを可能にしたボランティアの皆さん一人一人にも感謝します。多くの皆さんはここにいますね。こちらに到着したとき、事務局スタッフの皆さんにご挨拶したかったのですよ、皆さんがどれほど懸命に働いてきたかを知っていますから! それも無報酬で! 本当によく働いてくれました。うち大多数は異なる大陸から来た青年ですね! 主が皆さんを豊かに祝福されますように!

2年前に私から皆さんに依頼したことがありました。それは、世界に広がるカリスマ刷新のために当地ローマを拠点とする単独の国際奉仕会を設立することでしたが、この新たな単独の奉仕会の基本法という形で具体化しています。この事実をとくにありがたく思っています。これは第一歩であり、次の歩みが続いて行くでしょう。しかし、聖霊の御業である一致がまもなく現実となるのです。「わたしは万物を新しくする」(黙示21・5)と主は言われます。

ありがとう、カトリック・カリスマ刷新、この50年間教会に与えてくれたことを! 教会はあなたがたを頼りにしています。聖書の御言葉に忠実であるあなたがた、喜んで奉仕するあなたがた、聖霊によって変えられた命を証しするあなたがたを、教会は頼りにしています!

聖霊による洗礼を教会の誰にでも分かち合いなさい。絶えず主を賛美しなさい。祈りと最も恵まれない人々に対する行いにおいてすべてのキリスト者と共に歩みなさい。最も貧しい人々と病気で苦しむ人々に仕えなさい。これが、教会と教皇があなたがたに、カトリック・カリスマ刷新に、期待することです。あなたがた全員に、この恵みの潮流に入ったあなたがた一人一人に期待しています! ありがとう!

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2017年06月03日

聖霊刷新50周年記念行事初日の教皇の一般謁見講話(2017/05/31)

バチカンの聖ペトロ広場における聖霊による刷新50周年記念大会にて
2017年5月31日(水)

兄弟、姉妹の皆さん、お早うございます。

聖霊降臨が近づいていますので、キリスト者の希望と聖霊との関係について話さないわけにはいきません。聖霊は私たちを前へと駆り立てる風で、それは私たちが道をはずさないようにし、私たちが巡礼者であり寄留者であることを感じさせ、私たちが腰を落ち着けて「定住民族」となることを許しません。

ヘブライ人への手紙は希望を錨(いかり)に例えています(ヘブライ6:18-19)が、このイメージに帆のイメージを加えることができます。もし錨が、船を安定させ、揺れ動く波の中、船を海上に固定するものであれば、帆は逆に船を水上で動かし前進させるものです。希望は本当に帆のようです。それは聖霊の風を集め、事情に応じ、海へとあるいは岸へと船を押す駆動力に変容させます。

使徒パウロはローマ人への手紙をこの希望で締め括ります。皆さん、いいですか。よく聴いてください。何と美しい願いでしょう。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)。この美しいメッセージの意味についてしばらく考えてみましょう。

「希望の源である神」という表現は、神は私たちの希望の対象である、つまり、いつか永遠の命に入ったときに私たちが辿り着きたいと願う方であるというだけでなく、神は私たちが今、希望を持てるようにしてくださる方、いやむしろ、私たちを希望のうちに喜ぶ者としてくださる(ローマ12:12)方であるということでもあります。つまり、喜びを持つことを希望するだけでなく、今、喜びのうちに希望するということなのです。「いのちがあるところには希望がある」という有名なことわざがありますが、その逆も真です。希望があるところにはいのちがあるのです。人間は生きるためには希望が必要ですし、希望するためには聖霊を必要とします。

すでに聞いたとおり、聖パウロは、聖霊には私たちを「希望に満ちあふれ」させる力があると言っています。希望に満ちあふれるという意味は、決して落胆しないということです。「希望するすべもないときに(ローマ4:18)」なおも望みを抱くという意味です。すなわち、希望する人間的理由が何も見つからないときでさえ希望するということです。独り子イサクを捧げるようにと神に言われたアブラハムのように、もっと極端な例としては、イエスの十字架の下にいた聖母マリアのように。 

聖霊は、私たちが神の子供であり、相続人である(ローマ8:16-17参照)ことを内的に証しすることにより、そのようなときでさえも揺るぎない希望を抱くことを可能にしてくださいます。ご自分の御子さえ惜しまれなかった方が、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか(ローマ8:32参照)。兄弟姉妹の皆さん、「希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)。聖霊は私たちのうちにおられ、常に前進するようにと私たちを促されます。だからこそ、希望が私たちを落胆させることはないのです。

聖霊は私たちが希望を抱くことを可能にされるだけではありません。私たちが希望の種を蒔く者であることを可能にしてくださいます。さらに、私たちが、聖霊と同様、聖霊のお蔭で、「パラクレートス」つまり兄弟を慰める者、擁護する者であることをも可能にしてくださいます。福者ニューマン枢機卿は、ある時、信者へのお話の中で、こう言われました。「私たち自身の痛み、私たち自身の悲しみ、いやむしろ、私たち自身の罪に教えられ、私たちは、愛を必要としている人々に向かうあらゆる愛の奉仕のために訓練された心と精神とをぜひとも持たなくてはなりません。私たちは、“全能なるパラクレートス”のイメージにならい、ぜひとも各自がそれなりに慰める者、さらにはその言葉の持つすべての意味どおり、弁護者、助手、心に安らぎを与える側近にならなくてはならないのです。そうなったとき、私たちの言葉と助言、私たちの態度・物腰、声、顔つきは優しく、相手の心を静めるものとなります」(『平明教区説教集』第5巻、1870年ロンドン刊)。この広場にいる私たちそれぞれにとって聖霊が慰め主、保護者となっているように、自分たちにとっての「パレクレートス」つまり慰める者、保護する者となる誰かを必要としているのは、とりわけ、貧しい人々、除外されている人々、愛されていない人々です。私たちは、最も貧しい人々、拒絶された人々、最も助けを必要としている人々、最も苦しんでいる人々のために、聖霊と同様でなくてはなりません。つまり、保護する者、慰める者とならなければならないのです。

聖霊は、人類の心だけでなく、全被造物においても希望を育む方です。聖パウロは次のように言っています(奇妙に聞こえるかもしれませんが本当のことです)。 被造物も自由にされることを「待ち焦がれています」。そして、産みの苦しみのように「うめき、苦しんで」います(ローマ8:21-22参照)。「この世を動かすことのできるエネルギーは、名もなく無目的に働く力ではなく、創造時に“水の面を動いていた神の霊(創1:2)”の動きです」(2009年5月31日ベネディクト16世説教)。これも被造物を敬うよう私たちを促します。画家の描いた絵を損なえば、誰でも必ずその画家を立腹させることになります。

兄弟姉妹の皆さん、教会の誕生日である聖霊降臨祭が近づいています。イエスの母であり私たち自身の母であるマリア様とともに私たちが祈りのうちに一致できますように。そして、聖霊の賜物が私たちを希望で満ち溢れる者としてくださいますように。さらに付け加えます。最も貧しい人々、排斥されている人々、助けを必要としているすべての人々の上に希望を惜しみなく与えることができるよう、聖霊が私たちを助けてくださいますように。

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2017年05月31日

イタリアの聖霊刷新全国大会の教皇メッセージ(2014/06/01)

ローマのオリンピック・スタジアムにて
2014年6月1日

(以下抄訳)なお、大会には5万名のイタリア人のほか全世界61か国からおよそ2千人の人々が参加した。

親愛なる兄弟姉妹の皆様!
 皆さんの歓迎に感謝します。誰かが本日の主催者に、「主イエスは生きている」という賛歌を私が実際に好きだと告げたに相違ありませんね。ブレノス・アイレスの大聖堂でカリスマ刷新の方々とミサ聖祭を行う時、聖変化と異言による礼拝のあと、私たちは、今日の皆さんと同じように、大いなる喜びと熱情をこめてこの賛歌をよく歌ったものでした。
 皆さんと共に過ごすこの機会を設定された(イタリアの)聖霊による刷新とICCRSとカトリック親交会に感謝いたします。このような機会は私にとって大いなる喜びの源泉であります。聖霊の力の強烈な体験をされた、刷新の最初期のメンバーの方々がここに臨席されていることを嬉しく思います。パティもここにおられると思います。・・・あなたがた聖霊刷新の皆さんは、主から偉大な賜物を受け取られました。皆さんの運動の誕生は、「教会の中の、教会のための恵みの潮流」となるように聖霊によって望まれました。恵みの潮流であること、これがあなたがたのアイデンティティーです。
◆聖霊のまさに第一の賜物とは何でしょうか。それは聖霊ご自身という賜物です。聖霊は愛であり、私たちをイエスとの愛に陥らせます。そしてこの愛が私たちの生活を変えるのです。だから、私たちは「霊によって再び生まれる」と言います。それが、イエスがニコデモに告げたことなのです。あなたがたはカリスマの多様性という偉大な賜物を受け取りましたが、この多様性は聖霊のうちで、教会への奉仕において調和したものとなるのです。
 カリスマ的な方々について考えるとき、私は教会そのものについて、ただし、特別な仕方で考えます。つまり、すべての楽器と歌声が互いに異なっていますが、すべてのものが音楽の調和を創造するために必要とされている大きなオーケストラについて考えます。聖パウロはこのことをコリントの信徒への第一の手紙の12章で述べています。オーケストラにおけると同じように、刷新の中のひとは誰も、自分自身について他の人々よりも大切だとか偉大であるとは考えることはできません。なぜなら、自分自身をひとよりも大切だとか偉大だと考えるときには、災いがすでに起こりかかっているからです。誰も「私が頭だ」と言うことはできません。教会のように、あなたがたには、一つの頭、一人の主、主イエスがあるだけです。誰が刷新のかしらですか。[会衆の声]主イエスです! そして私たちはこれを、聖霊によって私たちに与えられた力を込めて言うことができます。誰も、聖霊なくして「イエスは主である」と言うことができないからです。
◆ご存じかもしれませんが―というのはニュースが出回っているからですが―ブエノス・アイレスのカリスマ刷新の初めの頃には、私はカリスマ的な人々があまり好きではありませんでした。私はよく、「彼らは私には、ある種のサンバの流派のようなものだ」と考えていました。私は、彼らの祈り方や、教会の中に起こっている多くの新しいものを共有していませんでした。あとで、それらを知るようになって、終には、カリスマ刷新が教会のためにしていた全ての良いことに気付きました。そして、「サンバの流派」から始まったこの話には、予想外の結末がありました。すなわち、あのコンクラーベに入る数か月前に、私は司教会議によって、アルゼンチンにおけるカリスマ刷新のための霊的補佐役に任命されたのです。
◆カリスマ刷新は、聖霊の喜びによる福音の説教に仕えるように意図された偉大な勢力です。あなたがたは聖霊を受けましたが、その聖霊はあなたがたが、ご自分のすべての子らにたいする神の愛を正しく評価するようにさせました。また、あなたがたが神のことばを愛するようにさせました。刷新の初期には、あなたがたカリスマ派はいつもバイブルを、新約聖書を持ち歩くと、よく言われたものです。今日でも持参しているでしょうか。(群衆の中から「はい」という返事)もしそうでないなら、このような最初の愛に立ち戻って、いつでも神のみことばをポケットやかばんに入れて持ち運んでください! そしてそこからちょっと読んで、いつでも神のことばを手元に保持してください。
 あなたがた、神の民、カリスマ刷新の方々は、聖霊がお与えになった自由を見失わないように注意深くあらねばなりません! 刷新にとっての危険は、あなたがたのご存知のラニエロ・カンタラメッサ神父がよく言っているように、余りにも組織化されてしまうということ、つまり、過度の計画性の危険です。
 もちろん、組織は必要ですが、神を神たらしめる恵みを決して喪失してはなりません。
「しかし、聖霊の導きに身をゆだねること以上に大きな自由はないのです。いっさいの計算と管理をやめて、聖霊に照らされ、導かれ、方向づけられ、聖霊の望まれるところへ駆り立てられるのです。すべての時代と、あらゆる瞬間において、何が必要であるかを、聖霊はご存知です。これを、神秘的な実りというのです」(『福音の喜び』280)。
 もう一つの危険は、神の恵みの調停者になってしまうことです。多くの機会に、グループや共同体のリーダーたち(私は「奉仕者」という名称のほうを好みます)は、ことによると意図しないままに、恵みの「マネージャー」になってしまい、霊の注ぎや満たしの祈りを誰が受けうるか、誰が受けられないかを決めたりします。あなたがたの中の誰かがこのようなことをしているなら、私はあなたがたに止めるように求めます。二度とそうしないように! あなたがたは聖霊のための料金所のように行動してはなりません。
◆あなたがたには、マリン文書の中に、よき手引き、あなたがたが道に迷うことのないように、頼りになる指針があります。第一の文書は「神学および司牧の上での方向付け」であり、第二は「エキュメニズムとカリスマ刷新」で、第二バチカン公会議の傑出した人物であったスーネンス枢機卿によって執筆されました。そして第三の文書は「カリスマ刷新と社会活動」であり、これはスーネンス枢機卿とヘルダ・カマラ司教によって書かれました。
 これが、あなたがたの指針です。すなわち、霊的エキュメニズムと、貧しく、援助を必要とする人々へのケアと、主流から排斥された人々を歓迎することです。そしてそのいずれもが礼拝に基づいています! 刷新の基礎は神への礼拝なのです。
◆教皇があなたがたに何を期待しているかを、あなたがたに話すようにと、私は求められました。
 その第一は、私たちの生涯を変化させ、おのおののキリスト者を神の家の証し人とさせるイエスの愛への回心であります。教会は私たちからこのようなキリスト者の生活の証しを期待しており、聖霊は私たちが福音を、聖性における自分自身の成長のために、十分に、かつ一貫して生きることを助けてくださるのです。
 私はあなたがたに、教会の中のだれとでも、聖霊の満たしという恵みを分かち合うことを期待しています。
 私はまた、あなたがたに、神のことばを用いて福音宣教することを期待します。これは、イエスが生きておられ、イエスはすべての男女を愛しておられることを告げ知らせるものです。また、イエスを主であり救い主として信じている、他の諸教会やキリスト教共同体のあらゆる兄弟姉妹に対して、霊的なエキュメニズムの証しをすることを期待します。
 主イエスが私たちにすべての人々に対して持つようにと求めておられる愛と、イエスの名による福音宣教にとって必要なこの一致の達成のために聖霊に向かって祈ることにおいて、一致のうちに留まることを期待します。「カリスマ刷新は事実、本性上エキュメニカルであり、・・・カトリックの刷新は、聖霊が他の諸教会において・・・なさっておられることを喜びとする」(第一のマリン文書5・3)ことを想い起こしましょう。
 貧しい人々や助けを必要としている人々に寄り添いなさい。そのようにして彼らの肉身において、イエスの傷ついた肉身に触れるためです。どうか、彼らに近寄ってください。
 刷新における一致を求めなさい。なぜなら一致は聖霊に由来し、三位一体の一体性から生まれるからです。誰が分裂の源なのでしょうか。悪魔です! 分裂は悪魔から生じます。どうかあらゆる内輪もめから身を遠ざけてください。あなたがたの間に、このようなものが何も存在しませんように!
 兄弟姉妹の皆さん、あなたがたの神である主を礼拝することを、思い起こしましょう。神を礼拝すること、これこそが根本的なことです! 聖霊の新たないのちにおける聖性を求めましょう。神の恵みを分配する者となってください。過剰な組織化という危険を避けてください。
 街中に出かけていって、福音宣教してください。福音を告げ知らせてください。教会があの五旬祭の朝に「あわただしさの中で」誕生したことを思い出しましょう。貧しい人々に近寄って、彼らの肉身においてイエスの傷ついた肉身に触れてください。あなたがた自身が聖霊によって、自由のうちに導かれるようにしてください。そしてどうか、聖霊をかごの中に閉じ込めませんように! 自由であってください!
 刷新における一致、三位一体から生ずる一致を求めてください!
 そして、あなたがた、世界中のカリスマ的な人々の全員が、2017年の聖霊降臨祭に聖ペトロの広場で皆さんの50周年を教皇と一緒に祝うことを楽しみにてしています。皆さん、ありがとう!

英語原文のリンク先

「生ける水」2014年夏季号(No.113)から転載。

2014年06月01日