聖霊刷新50周年の聖霊降臨祭ミサの教皇説教(2017/06/04)

バチカンの聖ペトロ広場における聖霊による刷新50周年記念大会にて
2017年6月4日(日)

今日、イエスの復活から聖霊降臨までの、特に聖霊の臨在によって特徴づけられる50日間の復活節が終わります。聖霊は実際、一段とすぐれた、復活祭の贈り物です。聖霊は創造主なる霊で、常に新しいことをもたらされます。今日の聖書の箇所は、それらの新しいことのうち二つを私たちに示しています。第一朗読(使徒言行録2・1-11)では、聖霊は弟子たちを新しい民にされます。福音書(ヨハネ20・19-23)では、聖霊は弟子たちのうちに新しい心を創造されます。

新しい民。五旬祭の日、聖霊は、「炎のような舌の形で天から降り、一人ひとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:3-4)。神の御言葉は聖霊の働きをこのように描写しています。聖霊は、まず一人ひとりの上にとどまり、次に彼ら全員を交わりのうちに呼び集められます。聖霊は、一人ひとりに賜物を与え、次に彼ら全員を一致へと寄せ集められるのです。言い換えれば、同じ聖霊が多様性と一致とを創造され、そのようにして新しい、多様な、一致した人々、つまり普遍教会を形づくられるのです。まず、創造的でかつ予期しない方法で、聖霊は多様性を生み出されます。なぜなら聖霊は、いつの時代においても、新しい様々なカリスマが花開くようになさるからです。次に聖霊は一致をもたらされます。聖霊は人々を結び付け、集め、調和を回復されるのです。ご自分の臨在とご自分の活動により、聖霊は、別個でそれぞれ異なる霊を一致へと引き寄せられます。聖霊は、神の御旨にしたがって、本当の一致がもたらされる方法でそうなさいます。その一致というのは、画一性による一致ではなく、違いを残したままの一致です。

それが起こるために、私たちは頻発する二つの誘惑を避ける必要があります。最初の誘惑は、一致のない多様性を求めることです。これが起こるのは、私たちが分離を望むとき、私たちが片寄って党派を組むとき、私たちが硬直・密閉した立場を取るとき、私たちが自分自身の考えとやり方に凝り固まるとき(そのとき、もしかしたら、自分たちは他の人々よりも優れているとか、自分たちは常に正しいと考えてさえいるのかもしれません)、私たちがいわゆる「真理の守護者」となるときです。このようなことが起こるとき、私たちは、教会に所属する以前にどこそこのグループに所属していると意識しており、全体よりも部分を優先することを選んでいるのです。そのとき、私たちは、一つの霊における兄弟姉妹よりも、一つの側の熱烈な支持者になるのです。そのとき、私たちは、イエスの側につく以前に、「右寄り」のあるいは「左寄り」のクリスチャンに、謙遜で感謝に満ちた、教会の子である以前に、過去を頑固に守護する者や未来についての先駆者になるのです。その結果は、一致のない多様性です。

正反対の誘惑は、多様性のない一致を求める誘惑です。そこでは、一致は画一性と同じ意味になり、常に同じように考えながら、誰もがあらゆることを同じ方法で共にしなくてはならなくなります。結局のところ、一致は同質性という意味になってしまい、もはやそこに自由はありません。しかし、聖パウロが言っているとおり、「主の霊のおられるところには自由があります(Ⅱコリント3:17)」。

ですから私たちが聖霊に向かう祈りは、聖霊による一致、つまり、個人的な好き嫌いを脇に置いて、主の教会、私たちの教会を抱き愛する眼差しを恵みとして祈り求めるものです。それは、全員が一致することについて責任を負うこと、不一致というドクムギとねたみという毒を蒔く陰口を一掃することです。なぜなら、教会の男性と女性であるということは交わり(コミュニオン)の男性と女性であるということだからです。またそれは、教会が私たちの母であり、私たちの家庭であると感じる心を求めることでもあります。そこは、人々に開かれ、人々を歓迎する家庭で、聖霊の多岐にわたる喜びが共有されているところです。

次は、聖霊によってもたらされる二つ目の新しいもの、つまり、新しい心について見てみましょう。復活されたイエスがご自分の弟子たちに最初に現れたとき、主は彼らに言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される(ヨハネ20:22-23)」と。イエスはご自分の受難の間に弟子たちがご自分を否定し捨てたことを非難なさらず、その代わりに赦しの霊を彼らにお与えになります。聖霊は、復活された主の最初の賜物であり、とりわけ罪の赦しのために与えられます。ここに私たちは教会の始まり、つまり、私たちを結びつける接着剤、家のレンガを結びつけるセメントである赦しを見るのです。赦しは最上の賜物なので、すべての中で最も偉大な愛なのです。それは、どんなことがあっても一致を保ち、崩壊を防ぎ、強固にし、強くします。赦しは私たちの心を自由にし、新たに歩み始めることを可能にしてくれます。赦しは希望を与えます。赦しなくして、教会は築き上げられません。

赦しの霊は、すべてのことを調和のうちに解決し、他のすべての方法を拒否するよう私たちを導きます。他の方法というのは、軽率な判断、すべての扉を閉めてしまうような窮地、他人を非難するだけの一方通行の道です。それよりも聖霊は、赦しを受け、かつ、与える両面通行の道、隣人への愛となる神のいつくしみの両面通行の道、あらゆることがなされるべきか、なされるべきでないか、あるいは変えられるべきか変えられるべきではないか、その唯一の基準となる愛の両面通行の道へと私たちを招かれます。赦しと自己を正すことにより自分自身を刷新させると同時に、私たちの母である教会の顔をもっと美しくするための恵みを願い求めましょう。そうなって初めて、私たちは他人を愛のうちに正すことができるようになります。

聖霊は教会と私たちのうちに燃えている愛の火です。たとえ私たちが自分たちの罪という灰によりしばしばその愛の火(聖霊)を覆ってしまうとしても。聖霊に願い求めましょう。「私の心と教会の中心に住み、多様性のうちに教会を導き形成しておられる主である神の霊よ、来てください!水と同様、私たちは生きるためにあなたを必要としています。私たちの上に新たに降臨してください。私たちに一致を教えてください。私たちの心を新たにし、あなたが私たちを愛するように愛することを、あなたが私たちを赦すように赦すことを私たちに教えてください。アーメン。」

英語原文のリンク先

翻訳:カトリック聖霊による刷新全国委員会

2017年06月04日